隋書卷四十六 列傳第十一 蘇孝慈

生涯

  • 蘇孝慈、扶風の人。父の武周は周の兗州刺史。孝慈は沈謹な器幹を持ち容儀美しく、周初に中侍上士、都督として斉に聘使し称され大都督に遷った。翌年も斉に聘し宣納上士。武帝の伐斉に功あり開府・文安県公邑千五百戸、のち臨水県公に改封し邑千二百戸を増され工部上大夫に累進。
  • 高祖受禅で安平郡公・太府卿となり、王朝草創期の百工を掌り能吏と評された。大司農、兵部尚書を歴任、皇太子勇の東宮官の重みを増すため太子右衛率を兼務。陝州の常平倉創設、渭水を導いた渠の開削(漕運の改善)を督し功を上げた。太子右庶子・左衛率・工部民部二尚書を兼務し幹理と称された。大将軍・工部尚書・率を歴任。官民の争利を避けるため台省府寺の廨銭による利息収入の廃止と公卿以下への職田支給を上表し嘉納された。
  • 開皇十八年(598年)太子廃黜が図られた際、その東宮での存在を憚られ淅州刺史に出された。太子は孝慈が去ることに不平を露わにしたという。仁寿初め洪州総管に遷り恵政あり、桂林の山越の乱を行軍総管として平定、その年官に卒。子の会昌。

蘇孝慈兄子沙羅

  • 孝慈の兄の子沙羅、字は子粹。父の順は周の眉州刺史。沙羅は周に仕え都督から出発、韋孝寛の尉迥討伐に功あり開府儀同三司・通秦県公に封ぜられた。開皇初、蜀王秀の益州鎮守に本官で従い資州刺史。八年(588年)冉尨羌の乱で汶山・金川二鎮を攻められた際これを撃破し邛州刺史。数年後に利州総管事を検校、史万歳の西爨討伐に従い大将軍に進み物千段を賜り、益州総管長史を検校。越の帰人王奉の挙兵を段文振と共に討平し奴婢百口を賜った。蜀王秀の廃黜に際し、吏の弾劾で「王奉は奴に殺されたのに秀は左右が斬ったと詐称し、また熟獠を調発して奴婢を出させたことを沙羅が隠して奏さなかった」とされ除名、家で卒した。子の康。