隋書卷四十五 列傳第十 房陵王

立太子までの経歴

  • 房陵王楊勇、字は睍地伐、高祖楊堅の長子。北周の代、父の軍功により太祖軍功で博平侯に封じられた。
  • 高祖が北周の政を輔けるようになると世子に立てられ、大将軍・左司衛を拝し、長寧郡公に封じられた。洛州総管・東京小塚宰として旧北斉の地を統括し、のち京師に召還されて上柱国・大司馬に進み、内史・禦正を領し、諸禁衛もすべてその配下に属した。
  • 隋の受禅に伴い皇太子に立てられ、軍国の政事および死罪以下の尚書の裁決を委ねられた。
  • 高祖が山東の流民を検察し、さらに民を北辺に移して実地させようとした際、勇は「風俗の教化は徐々に行うべきで急な改変はできない、民が土地を懐かしむのは本来の情である、流離の民は已むを得ぬ事情による」と諫め、高祖はこれを喜んで移民策を取りやめた。以後も政治の不都合な点をたびたび指摘し、高祖はしばしば採用した。
  • 高祖はかつて群臣に「自分には側室がなく、五子は同母の兄弟であり真の兄弟だ」と語った。

人柄と父の戒め

  • 勇は学を好み詩賦をよくし、性質は寛仁で厚いが、率意任情で飾らぬ行いをした。明克譲・姚察・陸開明らを賓客とした。
  • 蜀の鎧を装飾した際、高祖は不興を示し、「天道は親しみなく徳ある者に与する、奢侈な帝王で長く続いた者はない」と刀子を与えて戒めた。

冬至朝賀と高祖の疑念の兆し

  • 冬至の朝賀で百官が東宮に朝し、勇が音楽を張って賀を受けたことを高祖が知り、太常少卿辛亶に問うと「東宮への賀であり朝ではない」と答えたが、高祖は「東宮がこのようでは礼制に反する」として、諸方の朝賀は東宮に別に上らせることを停止する詔を下した。これより高祖の恩寵は次第に衰え、疑いが生じ始めた。
  • 高祖が宗衛侍官の選抜を命じた際、高熲が「強者を全て取れば東宮の宿衛が手薄になる」と奏したが、高祖は色を作して拒み、東宮には強武の者は不要と述べた。これは高熲の子が勇の女婿であったことへの疑いによるものであった。

内寵と皇后の不満

  • 勇は側室を多く寵愛し、特に昭訓雲氏を嫡妃同様に礼遇した。正妃元氏は寵愛なく心疾を得て二日で薨じ、独孤皇后はこれに疑いを抱いて勇を責めるようになった。以後、雲昭訓が内政を専断し、皇后はますます勇を快く思わなくなり、人を遣わして東宮の過失を探らせた。
  • 晋王楊広(後の煬帝)はこれを知り、身を慎み、蕭妃とのみ同居し寵愛を絞って見せた。晋王が入朝の際、皇后に対して恭しく別れを述べ、涙を流して兄への恐れを訴えた。皇后も心を動かされ、勇への不満を漏らした。
  • この後、晋王は張衡に策を練らせ、宇文述を通じて楊約を動かし、越国公楊素に皇后の意を伝えさせた。楊素は皇后の意を確かめると太子の不才を盛んに言い立て、皇后は楊素に金を贈り、廃立の意を固めた。

疑懼と楊素の讒言

  • 勇はその謀をうすうす察して憂懼し、占者王輔賢に占わせ、太子廃退の兆しがあると聞いて厭勝の術を行い、後園に「庶人村」を作って質素な生活をまねた。
  • 高祖が楊素を派して東宮の様子を見させた際、勇はわざと待たせて怒りを買い、楊素は「勇に怨望あり、異変の恐れあり」と讒言した。皇后も密偵を放って東宮の些細な事まで告げ口させ、高祖の疑いはますます深まった。玄武門から達至徳門にかけて監視の人員が配置され、東宮の宿衛のうち強壮な者は諸衛府に付け替えられた。
  • 晋王は段達を通じて東宮の寵臣姫威を財貨で誘い、東宮の内情を探らせて楊素に密告させた。段達は姫威に「東宮の罪過はすでに主上の知るところであり密詔で廃立が決まっている、協力すれば富貴が得られる」と脅し、姫威は承諾した。

廃黜の決定

  • 九月壬子、高祖が仁壽宮より帰京し、翌日大興殿で「なぜか気が塞ぐ」と述べたところ、吏部尚書牛弘が「臣らの不才の故」と答えたが、これは高祖の意図(太子の過失を聞き出したい)に反する応対であった。高祖は東宮官属に対し、仁壽宮から帰京するたびに敵国に入るような厳戒を要すると不満を述べ、唐令則ら数人を捕らえて糾問させた。
  • 楊素は東宮の様子を上奏し、太子が劉居士の残党討伐の勅を受けて「自分をどこまで追い詰めれば気が済むのか」「大事が成らねば自分が先に誅される」「天子になっても弟たちより不自由だ」などと言ったと告げた。
  • 高祖は「この子は久しく後継に堪えぬ、皇后は常々廃嫡を勧めていたが自分は忍んできた」と述べ、勇の言動(皇后の侍女を我が物と称したこと、二人の妃の急死への疑い、元孝矩への怨恨、長寧王儼の出自への疑い、劉金驎・定興の女への言及など)を列挙し、廃嫡の意を固めた。
  • 左衛大将軍・五原公元旻は「廃立の大事は天子に二言なし、讒言に惑わされぬよう」と諫めたが、高祖は答えなかった。

姫威の告発と廃黜の詔

  • 姫威はさらに、勇が苑を樊川から散関まで拡げようと望んだこと、東方朔の故事を引いて諫言者を斬ると放言したこと、蘇孝慈解任時の恨み言、尚書への怒り、苑内での築城工事、高緯・陳叔寶を引き合いに出した発言、師姥に占わせ「至尊の忌は十八年」と語ったことなどを告げた。
  • 高祖は「誰の子でも父母から生まれたのに」と嘆き、広平王らへの東宮の憎しみや、平陳後の宮人の求めなどを挙げ、『斉書』の高歓が子を放縦にした例を引いて憤慨した。勇とその諸子はすべて禁錮され、党与は捕らえられた。楊素は文をもてあそんで巧みに罪を構成し、勇は遂に失脚した。
  • 数日後、有司は左衛元旻が仁壽宮で裴弘を通じて勇と書を交わしたことを奏し、高祖は「東宮の些事が驛馬より速く伝わっていた怪しさはこれか」と武士を遣わして元旻・裴弘を捕らえ法で治めさせた。
  • かつて勇が仁壽宮からの帰路で見た枯槐の木で火燧数千枚を作らせ左右に分け与えようとしたこと、薬藏局に貯えた艾数斛が見つかったことも姫威により太子の異心の証とされ、東宮の馬千匹の飼育も謀反の準備とされたが、勇は「楊素の家には馬数万匹あるのに、自分の千匹が謀反というのか」と抗弁した。楊素はさらに東宮の贅沢な服玩を庭に並べて群官に示し罪状とした。太史令袁充も「天文により皇太子は廃されるべし」と進言した。
  • 高祖は戎服を整え兵を陳列して武徳殿に群官を集め、勇とその子らを殿庭に列させ、薛道衡に廃黜の詔を宣させた。詔は「皇太子勇は性識庸暗、仁孝の聞こえなく、小人に近づき奸佞を任用し、前後の過ちは記すに堪えない」として、勇とその王・公主に封じられた男女をすべて庶人に降した。勇は「都市で屍を晒され後世の戒めとなるべきところ、哀憐を蒙り性命を全うできた」と再拝して謝し、舞蹈して退いた。左右は皆これを憐れんだ。

東宮官属の処罰

  • 続いて下された詔では、左衛大将軍・五原郡公元旻を首謀とし、太子左庶子唐令則、太子家令鄒文騰、左衛率司馬夏侯福、典膳監元淹、前吏部侍郎蕭子寶、前主璽下士何竦の計七人を斬罪とし妻妾子孫を没官とした。車騎将軍閻毗、東郡公崔君綽、游騎尉沈福寶、瀛州民章仇太翼の四人は死一等を減じて杖一百、身及び妻子資財田宅を没官とした。副将作大匠高龍義、率更令晉文建、判司農少卿事元衡も処罰された。

晋王の立太子とその後

  • 群官を広陽門外に集めて詔を宣し処刑を行った。広平王雄は「至尊が骨肉の恩を割いて無徳の者を廃されたのは天下の大慶」と答えた。勇は内史省に移され、晋王広が皇太子に立てられ、勇は東宮に再び幽閉された。楊素に物三千段、元冑・楊約に各千段、楊難敵に五百段が下賜された。
  • 文林郎楊孝政が「皇太子は小人に誤られたのであり訓誡すべきで廃黜すべきではない」と諫めて高祖の怒りを買い胸を打たれた。貝州長史裴肅は勇への小国封建を求める上表をしたが、高祖はこれを聞いて逆に裴肅を召し廃立の意を詳しく説いた。
  • 勇は自らの廃黜を不当として頻りに拝謁を求め、樹に登って大声で訴えたが、楊素が「勇は精神錯乱しており癲鬼に憑かれている、再び用いるべきでない」と奏し、拝謁は叶わなかった。楊素の讒言と冤罪づくりは常にこの類であった。

高祖崩御と誅殺

  • 高祖が仁壽宮で病床につき皇太子を召して看病させたが、太子は宮闈で不正を働き、これが高祖の耳に入った。高祖は寝台を叩いて「無実に我が子を廃してしまった」と嘆き、勇を呼び戻そうとしたが、使者を発する前に高祖は急逝し、喪は秘された。柳述・元岩は捕らえられ大理獄に繋がれ、高祖の勅書を偽って庶人勇に死を賜った。房陵王に追封されたが後嗣は立てられなかった。

房陵王勇の諸子

  • 勇には十人の男子があった。雲昭訓が生んだ長寧王儼・平原王裕・安城王筠、高良娣が生んだ安平王嶷・襄城王恪、王良媛が生んだ高陽王該・建安王韶、成姫が生んだ潁川王煚、後宮が生んだ孝実・孝範である。
  • 長寧王儼は勇の長子。誕生の際、高祖が「皇太孫がなぜ良き地に生まれなかったのか」と述べたところ雲定興が「龍種は雲によって出るもの」と奏し当時人々に機敏な受け答えと評された。六歳で長寧郡王に封じられ、勇の失脚に伴い廃黜された。宿衛を願う哀切な上表をし高祖は憐れんだが、楊素は「聖心をむしろ厳しく持されるように」と進言してこれを退けさせた。煬帝即位後、儼は行幸に従ったが道中で卒し、実は毒殺であった。諸弟は嶺外に分けて流され、現地でことごとく殺された。