隋書卷四十四 列傳第九 滕穆王瓚
滕穆王楊瓚、字は恆生(?-591年、享年42)。高祖の同母弟。北周では武帝に重んじられたが、高祖とは不和で、隋の受禅後も疎まれ、王妃を独孤皇后との不仲を理由に廃されるなど恩礼を失い、栗園行幸中に急死した(鴆毒の噂あり)。子の楊綸も父の一件により終生猜疑を受け、煬帝の代に流罪となった。
周代の栄達
- 瓚、字は恆生、一名は慧。高祖(楊堅)の同母弟。周代、太祖(宇文泰)の軍功により竟陵郡公に封ぜられ、武帝の妹の順陽公主を娶り、右中侍上士から禦伯中大夫に遷った。保定4年(564年)、納言に改められ儀同を授かった。
- 瓚は貴公子でかつ公主を娶り、容姿も美しく書を好み士を愛し、当世に令名があり、時人は「楊三郎」と号した。武帝は甚だこれを親愛した。斉平定の役に諸王がみな従軍する中、瓚だけは留まって留守を任され、帝は「六府の事は多忙だが、これをすべて汝に託す。朕は東方の事に専念でき、西を顧みる憂いがない」と言うほど信頼された。
- 宣帝の即位後、吏部中大夫に遷り上儀同を加えられた。まもなく帝が崩じ、高祖が禁中に入って朝政を総べようとした際、廃太子勇に命じて瓚を召し計議しようとしたが、瓚は日頃から高祖と不和であったため召しに応じず、「隋国公(高祖)はおそらく身を保てまい。なぜ族滅の事にわざわざ加わろうか」と言った。
- 高祖が丞相となると大将軍に遷り、まもなく大宗伯を拝して礼律の修訂を司り、上柱国・邵国公に位を進めた。瓚は高祖が執政し人心がまだ一致していないのを見て、家禍を恐れひそかに高祖を除く計を抱いたが、高祖は常にこれを寛容に扱った。受禅後、瓚は滕王に立てられ、のち雍州牧を拝した。上はしばしば瓚と同席し「阿三」と呼んだが、後に事に坐して牧の任を解かれ、王として自邸にとどまった。
妃の廃絶と急死
- 瓚の妃の宇文氏は、以前から独孤皇后と不仲で、鬱々として志を得られず、密かに呪詛を行った。上は瓚に彼女を出すよう命じたが、瓚は離縁に忍びず固く辞退した。上はやむを得ずこれを許し、宇文氏はついに属籍を除かれた。瓚はこれにより上の意に逆らう形となり、恩礼はさらに薄くなった。
- 開皇11年(591年)、栗園への行幸に従った際、突然薨じた。時に年42。人々はみな鴆毒に遇って死んだのだと噂した。子の綸が跡を継いだ。
楊綸――猜疑と流謫
- 綸、字は斌籀。性質は温厚で容姿が美しく、鐘律にも通じた。高祖の受禅により邵国公(食邑八千戸)に封ぜられ、翌年邵州刺史を拝した。晋王広が梁より妃を迎えた際、詔により綸が礼を執り行い、梁人から敬われた。
- 綸は穆王(父瓚)の一件があるため、高祖の代を通じて常に不安であった。煬帝の即位後はことさら猜疑された。綸は憂懼のあまり術者の王琛を呼んで占わせたところ、琛は「王の相禄は凡ならず」と答え、「『滕』は『騰』に通じ、この字はまさに吉祥の応にふさわしい」と言った。
- 沙門の恵恩・崛多らは占候に通じており、綸は常にこの三人と交わり、星を度る法を行わせていた。ある者が綸の怨望・呪詛を告発し、帝は黄門侍郎の王弘に命じて厳しくこれを取り調べさせた。弘は帝が怒っているのを見て、その意を迎えて綸を厭蠱(呪術)・悪逆と奏し、死刑に相当するとした。
- 帝は公卿にこの件を議させた。司徒の楊素らは「綸は国家の災いを希望し、それを自らの幸いとした。その悪の由来は家系に根ざす。皇運の始まりに際し四海が一心であるべきときに、彼の先代(瓚)はこの大謀に離反し異心を抱いた。父が先に道に背き、子が後に逆らったのは、単に朝廷を覬覦するだけでなく社稷を危うくするものであり、その罪は極めて重い。前律に依るべきである」と述べた。
- 帝は皇族であることから誅殺に忍びず、除名して庶人とし始安に流した。諸弟も辺郡に散らして流した。大業7年(611年)、帝が遼東に親征した際、綸は上表して従軍を願ったが郡司に阻まれた。まもなく再び硃崖に流された。天下が乱れると、賊の林士弘に迫られ妻子を連れて儋耳に逃れた。後に唐に帰順し、懐化県公となった。
楊坦・楊猛・楊溫・楊詵――綸の弟たち
- 綸の弟の坦、字は文籀。初め竟陵郡公に封ぜられたが、綸の一件に連座して長沙に流された。
- 坦の弟の猛、字は武籀。衡山に流された。
- 猛の弟の溫、字は明籀。初め零陵に流された。溫は学を好み文章に長じ、『零陵賦』を作って自らの心情を寄せたが、その辞は哀しみに満ちていた。帝はこれを見て怒り、南海に転徙させた。
- 溫の弟の詵、字は弘籀。以前は零陵に流されていたが、帝はその修謹さから滕王の封を襲がせ、穆王の祭祀を奉じさせた。大業末、江都で薨じた。