隋書卷四十三 列傳第八 楊子崇

辺境防衛と最期

  • 高祖の族弟。父の盆生は荊州刺史を追贈された。子崇は幼くして学を好み、書記に通じ、風儀があり賢士を愛した。開皇初、儀同を拝し、車騎将軍として宿衛を常に司った。後に司門侍郎となった。
  • 煬帝の即位後、候衛将軍に累進したが事に坐して免ぜられ、まもなく再び検校将軍事を命じられた。帝の汾陽宮行幸に従い、子崇は突厥が必ず寇害をなすと見て、たびたび早期の帰京を請うたが帝は容れなかった。まもなく雁門の囲みが起きた。
  • 賊が退くと、帝は怒って「子崇は怯懦で妄りに陳請し、我が軍の人心を動揺させた。爪牙の任にふさわしくない」と言い、離石郡太守に出した。子崇は治績で名を上げた。
  • 突厥がたびたび辺塞を侵し、胡賊の劉六児も郡境を劫掠したため、子崇は上表して援兵の派遣を請うたが、帝はまた大いに怒り、子崇に長城を巡行するよう命じた。子崇は百余里出たが四方の道が絶たれ、進めずに戻った。
  • 当時百姓は飢饉で群盗となる者が多く、子崇は前後数千人を捕らえ斬った。1年余り後、朔方の梁師都・馬邑の劉武周らが相次いで挙兵し、郡中の諸胡も呼応して騒乱を起こした。子崇はこれを憂い、朝集を口実に心腹数百人と孟門関から京師へ帰ろうとした。
  • 輜重が半ば渡ったところで、河西の諸県が長吏を殺して梁師都に叛帰し、道が断たれたため、子崇は離石に退いた。従っていた左右の者たちは太原に兵が起こったと聞くと、城に戻らず次々に離反した。子崇は叛者の父兄を捕らえてすべて斬った。
  • 数日後、義兵が夜に城下に至り、城中の豪傑もこれに応じて挙兵した。城は陥落し、子崇は仇家に殺された。