隋書卷四十 列傳第五 宇文忻

北周での立身

  • 宇文忻、字は仲楽。もと朔方の人で京兆に移った。祖父の莫豆于は魏の安平公、父の貴は北周の大司馬・許国公。忻は幼くして聡慧で、児童の遊びの中でも部伍を組み進退の号令に従わせるほどで、識者はこれを異とした。12歳で左右に馳射でき驍捷で飛ぶが如くであった。常々親しい者に「古来の名将は韓信・白起・衛青・霍去病を称えるが、その事跡を見るに大して尊ぶには足りない、もし自分が同時代にいれば彼らだけに高名を独占させはしない」と語った。18歳で北周の斉王憲に従い突厥討伐の功を挙げ儀同三司を拝し興固県公に封ぜられた。韋孝寛が玉壁を鎮めた際、忻の驍勇を見込んで同行を求め、たびたびの戦功で開府・驃騎将軍を加えられ化政郡公(2000戸)に爵を進めた。
  • 武帝の斉討伐に従い晋州を攻略した。斉の後主が自ら六軍を率い勢いが盛んだったため帝は師を退こうとしたが、忻は「陛下の聖武をもって敵の荒縦に乗ずれば克たぬところなどありましょうか、もし斉に賢明な君主が現れ君臣が協力すれば湯武の勢いをもってしても容易には平らげられません、今は主が暗愚で臣が愚かで兵に闘志もなく、百万の兵があっても陛下に奉ずるだけの存在です」と諫め、帝はこれに従い大勝した。帝が并州を陥落させたのち先勝後敗し賊に窘められ左右が全滅、帝自ら身一つで脱出した際、諸将は帰還を勧めたが、忻は憤然と進み出て「陛下が晋州を克し高緯を破って以来、勝ちに乗じて追撃しここに至った、偽主を奔波させ関東を震撼させたことは古来の用兵にも稀な盛事です、昨日の攻城で将士が油断し少々不利になっただけで気にするに足りません、丈夫たるもの死中に生を求め敗中に勝を取るべき、今まさに勢いに乗っているのになぜこれを棄てるのですか」と説いた。帝はこれに従い翌日再戦し晋陽を陥落させた。斉平定後、大将軍に進み物1000段を賜り、烏丸軌と共に呂梁で陳将呉明徹を破り柱国に進み奴婢200口を賜り豫州総管を除せられた。

高祖擁立後の栄達と謀反

  • 高祖が龍潜(即位前)の頃から忻と情誼は篤く、丞相になると恩顧はいよいよ厚くなった。尉遅迥の乱に行軍総管として韋孝寛に従い河陽に屯する諸軍が誰も先んじて進まぬ中、帝が高熲を監軍に馳せ、熲と密かに進取を謀ったのは忻だけであった。迥の子惇が武陟に大兵を布くと忻は先鋒でこれを撃退し、相州に迫ると迥が野馬岡に精兵3000を伏せて邀えようとしたが忻は500騎で襲いほぼ殲滅した。草橋に至って迥がまた拒むと奇兵でこれを破り鄴の下まで進んだ。迥が背城の陣を布いて激戦となり官軍が不利になった際、鄴城の見物人が数万に及んでいたことから忻は高熲・李詢らと「事は急を要する、権道で破るしかない」と謀り、見物人を攻撃して大混乱を起こし、その声を利用して「賊は敗れた」と叫ぶと官軍は勢いを盛り返し迥軍を大破した。鄴城平定の功で上柱国に進み奴婢200口・牛馬羊万計を賜った。高祖は忻に「尉遅迥は山東の衆を傾け百万の師を運用したが、公の策は一つも外れず戦えば必ず全陣を破った、まことに天下の英傑である」と語り、英国公に封じ3000戸を加増した。以後、忻は帷幄に参与し臥内に出入りし、禅代の際にも力があった。のち右領軍大将軍を拝し恩顧はさらに重んじられた。
  • 忻は兵法に精通し軍を整然と統率したため、当時六軍で善い事があれば忻の関与でなくとも「これは必ず英公(忻)の法だ」と称えられるほど推服された。のち国公に改封された。上が忻に突厥討伐を命じようとした際、高熲が「忻には異志がある、大兵を委ねてはならない」と進言し取りやめとなった。忻は佐命の功臣として将領を歴任し当世に威名があったが、上はこれを微かに忌み、譴責して官を去らせた。忻は梁士彦と親しく交わり、士彦もまた怨望を懐いて不軌を図っていた際、忻は「帝王に定まりなどあろうか、互いに助け合えばよい、公は蒲州で挙兵せよ、私は必ず従軍する、両軍が相対したところで結びつけば天下は図れる」と語ったという。謀が漏れて誅殺された。享年64。家は籍没された。
  • 忻の兄の善は弘厚で武芸に富み、北周で上柱国・許国公に至った。高祖受禅後も厚く遇され、子の穎は上儀同を拝したが、忻の誅殺に連座して廃された。善はまもなく没した。穎は大業年間、司農少卿に至ったが李密が東都に迫った際、密に叛帰した。忻の弟の愷には別伝がある。