隋書卷三十九 列傳第四 賀若誼

賀若誼

  • 賀若誼、字は道機。河南洛陽の人。祖父の伏連は魏の雲州刺史、父の統は右衛将軍。誼は剛果で幹略に富んだ。魏で功臣の子として容城県男を賜り、直閤将軍・大都督・通直散騎常侍・尚食典禦に累進した。北周太祖が関中を有した折、側近に引かれた。杏城に使いした際、茹茹の種族が離反し河表に屯していたのを禍福を説いて帰順させ、1万余口が降った。太祖は大いにこれを奇とし金銀百両を賜った。北斉が舎人楊暢を茹茹に遣わして交誼を結ぼうとした際、太祖はこれを憂え誼を茹茹に使わし厚利で誘って北周と結ばせ、暢を捕らえて誼に付した。太祖はこれを嘉し車騎大将軍・儀同三司・略陽公府長史を拝した。北周閔帝受禅後、司射大夫を授かり霸城県子に改封され左宮伯に転じ、まもなく開府を加えられた。のち霊・邵二州刺史、原・信二州総管を歴任しいずれも能吏として名を挙げた。兄の敦が金州総管で讒毀により誅されたことに連座して免職された。
  • 武帝親政後、熊州刺史に召された。斉平定の役では函谷から出兵し先に洛陽を占拠し洛州刺史を拝し建威県侯に爵を進めた。斉の范陽王高紹義が突厥に逃げた際、誼は兵を率いて追撃し馬邑で戦って紹義を捕らえた。功により大将軍に進んだ。高祖が丞相となると亳州総管を拝し駅馬で赴任、西は司馬消難を遏え東は尉遅迥を拒んだ。申州刺史李慧が反乱を起こすとこれを討ち、范陽郡公に爵を進め上大将軍を授けられた。
  • 開皇初め右武候将軍に入り、河間王弘の北征突厥に副元帥として従った。軍の帰還後、左武候大将軍に転じたが事に坐して免ぜられた。1年余りで華州刺史を拝し敷州刺史に転じ海陵郡公に改封、さらに涇州刺史に転じた。突厥がたびたび辺患をなす中、朝廷は誼の威名を重んじ霊州刺史を拝し柱国に進めた。誼は当時すでに高齢であったが筋力は衰えず重い鎧を着けて馬に乗り、北夷に深く畏れられた。数年後、骸骨を乞い優詔で許された。誼の家は富み、郊外に別荘を構え果樹を多く植え、賓客を招くたびに女楽を並べその間で遊集した。家で没した。享年77。子の挙が爵を襲った。
  • 庶長子の協は驃騎将軍に至った。協の弟の祥は奉車都尉、祥の弟の与は車騎将軍。誼の兄の子の弼には別伝がある。

史評

  • 史臣は評す。于義・竇栄定らは、あるいは南陽の姻戚のごとく、あるいは豊邑の旧遊のごとく、時運に乗じて力を尽くした。労をもって国を定め功をもって賞を得、禄位を保ち子孫に伝えたことは、薪を割って荷を継ぐが如く基礎を崇めて墜とさぬ、まことに盛んなことである。豆盧毓は屯剝(艱難)の機に遭遇して義に殉じ、陰世師は天に廃される運命に遭いながらも命を捨てて志を渝さなかった。もし死者に知覚があるなら、君や親に対して恥じるところはないと言えよう。