崩御・服喪をめぐる議論(凶礼)
- 陳永定三年、武帝崩御に際し、大行皇帝の呼称をいつから諡号に改めるかを巡り新任尚書左丞庾持と国子博士沈文阿らが議論、梁の儀に依り祖祭時点で既に諡を称すべしとされ詔許された。
- 天嘉元年、皇太后(安吉君)の禫除の期間について沈洙が「至親朞断だが再朞に加降し二十五月で断つ」と論じ、宋元嘉・大明・斉建元の先例を引いて心喪二十五月説を確認、詔許された。
- 隋制では岳崩瀆竭に天子は素服・避正寝・撤膳三日、使者を遣わし太牢で祭った。皇帝の本服大功以上の親・外祖父母・皇后父母・正一品官の喪では三日不視事、五服内親・嬪・正二品以上の喪では一挙哀、日蝕・国忌日・小功緦麻親・三品以上の喪では一日不視事とする細かな規定があった。皇太后・皇后・皇太子もそれぞれ本服の親等に応じ挙哀の定めがあった。
- 梁では改葬の服喪期間(緦麻)、追服三年の可否、亡月が閏に当たる場合の忌日の扱い、廟が新造された際の代祭の可否、貴嬪の母の喪服(公子為母の麻衣の制に準じ既葬にて除く)、墓の石人獣碑の禁止(石柱のみ許可)、諸王の喪服(安成始興二王が遠地の場合は嗣子が摂事)、爵命ある者は殤とならない原則、大功之末・小功之末における冠婚嫁娶の可否(武帝の長大な考証により「小功之末には娶婦を許すが下殤の小功にはこれを許さない」との統一見解が示された)など、細目にわたる議論が積み重ねられた。
- 北斉は喪の格式(借用の白鼓、凶門柏歴、方相・魌頭の使用可否、旌の旒数、旐の長さ)を身分別に定めた。王元軌の祖父母改葬の服喪について邢子才が「改葬緦麻」は臣為君・子為父・妻為夫の三者に限られるが、承重の嫡曾孫・孫は三年服に準じ緦を服すべきと論じた。
- 隋の開皇初め、高祖は典礼の整備を望み、太常卿牛弘が「江南の王儉の私撰儀注は古法に違い、山東は北魏・北斉に倣うのみで賓嘉の礼が未詳定」と奏し、東斉の儀注を基礎に王儉の礼も微採して儀礼百巻を撰修、天下に頒布させた。
- 喪紀は王公から庶人まで身分ごとに定制化された。正一品の喪は鴻臚卿が監護し司儀令が礼制を示す、二品以上は鴻臚丞、五品以上・三品以上の朞親喪は掌儀一人が示すなど。官人在職者の斂服(朝服または冕服、無官者は白帢単衣)、棺内に金銀珠玉を置くことの禁止、重(懸鬲の数)・轜車(幰の材質・画・旒蘇の数)・執紼の人数・引披鐸翣の数・方相魌頭の使用(四品以上・七品以上)は品階に応じ細かく差等が設けられ、京師での葬地は城外七里以遠、三品以上は螭首亀趺の碑(高九尺以下)、七品以上は圭首方趺の碣(高四尺)を立て、無爵でも隠淪道素・孝義著聞の者は奏して碣を立てることを許された。三年及び朞喪は閏月を数えず、大功以下は数える。凶服での宮門出入りや、居喪中の弔賀・宴への不参加の原則、戎事の場合の例外なども定められた。
朝聘(諸侯・藩国の朝見の礼)
- 秦の天下統一以降、朝覲の礼は一時廃れたが、北周が蕭詧を梁王に封じて以来隋に至るまで藩国として朝見の儀が続いた。梁王が北周に朝する際の積(食料の供与)・館での接待・璧を用いた贄の授受・三公三孤六卿による段階的な労問など、複雑な往還の礼次第が定められていた。
- 開皇四年正月、梁主蕭巋が京師に朝見した際、楊雄・韋世康が持節して迎え、蕭巋は通天冠・絳紗袍で北面拝礼し詔を受け、高祖との対面では高祖は通天冠・絳紗袍で大興殿に御し、蕭巋は遠遊冠・朝服で入り君臣ともに拝礼して終わった。
軍礼――出師・類上帝・宜社・造廟
- 天子の征伐に際しては社に宜し祖廟に造り上帝を類し、還れば牲を以て徧く告げる。梁の天監初め、陸璉が軍礼を定め、武帝は「宜(征討の適否を問う)・造(廟に謀を稟す)・類(天時を奉じ伐を明かす)はいずれも独断でないことを示す」と説いたが陸璉・厳植之はこれに十分答えられなかった。
- 北斉の天子親征では通天冠から武弁への改服、廟への告知(遷廟主を斎車に載せる)、社への告知(毛血で軍鼓を釁り帝社石主を車に載せる)、六軍を陳ね上帝を類する類礼、后土・神州・岳鎮海瀆・源川を祈る儀、坎盟の儀(督将が牲を坎南に並べ盟文を読み牲耳の血を皇帝が諸将に授ける)、牙旗を建て太牢で祭る儀、戦地に至れば禡祭(大司馬が矢を奠じ楽は大護を奏す)、開戦前日に祖廟・社への祈祷、戦勝後の太牢での報賽、功臣への太牢賞賜、不用命者への社での処罰、凱旋後の廟社詣で・飲至の礼(策勲の儀)まで一連の次第が定められた。
- 隋制では行幸の途次の名山大川に有司が致祭(岳瀆は太牢、山川は少牢)。親征・巡狩には類上帝・宜社・造廟の礼を行い還りも同様。出発に際しては軷祭(国門外に土で山を象り埋坎を設け、羊を刳き俎豆を陳ね、脯醢や羊を軷に加え、酒を奠じ轢いて出発する)を行った。
- 大業七年の遼東出征では、煬帝は薊城南桑乾河上に社稷二壇を築き宜社の礼を行い、臨朔宮懐荒殿で斎し、袞冕・玉輅で法駕を備え、宮南で類上帝(高祖の位を東方に設け大裘冕で祭奠)、薊城北で馬祖を祭った(燎あり)。
- 出征軍の編成は大将・亜将各一人、騎兵四十隊(隊百人に纛一)を十隊で団とし、四団はそれぞれ青(狻猊旗)・絳(貔貅旗)・白(辟邪旗)・烏(六駁旗)の甲冑・纓拂で色分けされ、前部鼓吹・後部鐃吹の編成、歩卒八十隊も同様に四団(青隼・黄隼・白隼・蒼隼の盪幡)に分けられた。承詔慰撫の受降使者も置かれた。行軍の陣立て(東西南北四門よりの出陣・帰営時の方陣形成)、輜重・散兵の配置、五日交代の哨戒制度なども詳細に定められ、遼東出征では毎日一軍ずつ発進し全軍が二十四日かけて連営前進、旌旗が九百六十里に亘り、天子六軍を合わせ通じて千四十里に及ぶ空前の規模となった。諸軍は「軍記帯」という識別帯を衣領に付け、これのない離隊者は斬に処された。
- この年、望海鎮の禿黎山で黄帝を祀る禡祭も韋霽・褚亮の定めた儀により行われた。
- 隋制では常に仲春に大沢で馬祖を少牢で祭り(燎あり)、仲夏に先牧、仲秋に馬社、仲冬に馬歩を大沢で祭った(埋のみで燎なし)。開皇二十年、晋王広の突厥北伐に際し軒轅黄帝への禡祭が太牢制幣・甲兵の陳列・三献の礼で行われた。
軍礼――出師の授鉞
- 北斉は命将出征に際し太卜が太廟で霊亀を灼き鼓旗を授け、皇帝は袞冕で廟に拝し、上将に鉞と斧を授け「これより天に至るまでは将軍これを制せよ」「これより泉に至るまでは将軍これを制せよ」と命じ、将軍は「軍は中より制すべからず」と応じ、皇帝は「社稷に利あらば将軍これを裁せ」と答え、将軍は斧鉞を車に載せて出、皇帝は轂を推し閫を度り「これより外は将軍これを制せよ」と命じた。
- 北周の明帝武成元年、吐谷渾の辺境侵犯に際し大司馬賀蘭祥が太祖廟で大将に鉞を授けた例がある。
- 隋制では皇太子の親征・大将出師に際し豭肫(雄豚)一頭で軍鼓を釁り社廟に告げ、斧鉞を受けた後は家に戻って宿ることを許されなかった。開皇八年、晋王広の陳討伐に際し李徳林が太尉を摂して太祖廟に告げ太社にも宜した。
講武・蒐狩
- 古は三年に一度練兵し、春秋の蒐獮でも軍事を講じた。梁・陳は宋元嘉二十五年の宣武場での蒐に依り、行軍殿を設け、三奏三厳の後、皇帝が戎服で乗馬し狩猟、終えて宴を開き乱を犯した者一人を戮して法を懲らしめた。
- 北斉は季秋に都外で講武し、有司が場を設け二軍の進止を教え、旗の指麾・金鼓の動止・刑賞の理・五兵の扱い・跪伏や嶮阻な地形での行動を段階的に士に教えた。二軍が客主に分かれ五行相勝の法で対陣する演習を行った。
- 北斉の春蒐礼は左甄・右甄・中軍の大司馬による囲みの布陣、天子の親禽(三駆で追い込み獲物を射る)、獲物は乾豆・賓客用・君の庖用の三用途に分けられ、夏苗・秋獮・冬狩も同じ礼で行われた。河清中の定令では十二月半ばから晦日まで講武を行い儺で締めくくった。
- 北斉三月三日の大射礼、季秋の大射では品階に応じ射数・的(麞頭・帖・獣頭)が細かく定められ(一品五十発~九品十発)、大将・射司馬・埒将ら専任の役職も置かれた。
- 北周は仲春に振旅の教練(大司馬が旗物鼓鐸で衆を集め、後れる者を誅す)、狩猟で得た獲物を社に祭り、仲夏の茇舎、仲秋の練兵、仲冬の大閲もそれぞれ苗・獮・狩の礼を伴い社・礿・方・烝への献供と結び付けられた。
- 孟秋の迎太白(金星)の礼も北周にあり、六軍が介冑して集まり三献の礼を行った。
- 隋制は大射で射侯を少牢で祭り、軍人は毎年孟秋に戎具を閲し仲冬に戦法を教えた。大業三年、煬帝は榆林で突厥啓民可汗や西域・東胡の君長を迎えた際、甲兵の盛んなことを誇示するため冬狩の礼を挙行、拔延山南北二百里を四十軍(各一万人、騎五千匹)に分け前日に旗下へ集合させ、闟猪車(獵車)に乗り大綏・小綏の合図で三駆の後に獣を射た(射法にも左膘から右腢に達するのを上等とする等の等級規定があり、群獣の皆殺しや傷ついた獣の重射、人に向かう獣の顔への射を禁じた)。獲物は大獣を公用(宗廟供進)、小獣を私用とした。
儺(追儺の儀)
- 北斉は季冬晦日に十歳~十二歳の楽人の子弟二百四十人を侲子とし(鼗を持つ組と鞞角を持つ組)、方相氏(黄金四目・熊皮・玄衣朱裳)と十二獣(窮奇・祖明の類)が禁中の悪鬼を逐った。戊夜三唱で里門を開き儺者が集合、四唱で城門を開き、皇帝が座に即き親王以下が陪観、儺者が殿内を巡り六道に分かれ郭外に出た。
- 隋制では季春晦日と秋分前日・季冬に儺を行い、宮門・城四門で牲(羝羊・雄鶏)を磔にして陰陽の気を禳った。方相氏一人(黄金四目・熊皮・玄衣朱裳)と唱師一人が侲子(冬八隊、二時儺は四隊)を率い、未明に鼓譟して入り顕陽門を経て諸城門に分散、祝師が牲の胸を副えて門に磔にし酒を酌んで祝った。
日蝕の礼
- 北斉制では日蝕に際し太極殿西廂・東堂東廂に御座を設け、蝕の三刻前から皇帝は通天冠で御座に即くが、実際に変異があれば正殿を避け東堂に移り白袷単衣を着し、侍臣は赤幘帯剣で侍し、諸司も赤幘持剣で日に向かい立ち、太社を屯衛して朱糸で三匝に社壇を繞い太祝令が社を責める辞を読み、太史令が馬を走らせ変異を上奏、日光が復せば解厳を奏した。
露布(戦勝報告の儀)
- 北魏以来、戦勝を天下に知らせるため帛に書き竿に建てる「露布」の慣行があった。開皇中、牛弘・裴政に宣露布の礼を撰させ、開皇九年の陳平定に際し晋王広が駅で露布を上げた際、百官・四方の客使を広陽門外に集め、内史令が詔ありと称すると在位者は拝礼し、宣読の後さらに三度の蹈舞礼を行った(郡県でも同様の儀が行われた)。