續明紀事本末李定国・孫可望の軍(李孫之兵)

順治三年(1646年)の張献忠討死から康熙元年(1662年)の李定国死去まで16年、張献忠残党である孫可望・李定国らの内訌を描く。孫可望は雲南・貴州を掌握し秦王を自称して永暦帝を圧迫したが、李定国は次第に明への忠誠に転じ、可望と対立を深めた。順治十五年(1658年)可望の反乱が失敗し清に降伏すると、定国は永暦帝を奉じて緬甸まで転戦を続けたが、康熙元年、永暦帝死去の報に落胆し病没した。

年表(17件)

順治三年(隆武二年。この年桂王〔永暦帝〕立つ)

  • 冬十二月、豪格・呉三桂の軍が漢中から鳳凰山に急行し、降将劉進忠の手引きで張献忠を急襲。雅布蘭の矢が額に命中し、献忠は薪の中で討たれた。清軍の急襲で賊軍は総崩れとなり、保寧が陥落した。
  • 献忠の残党である孫可望・李定国・劉文秀・艾能奇は南へ潰走。食糧が尽きて人を食うほどの惨状となり、渠河・重慶の攻防では劉文秀が裸で刀を咥えて泳ぎ渡り舟を奪う奇策で活路を開いた。偽相汪兆麟は隆武帝の降伏勧告に動揺し、艾能奇に射殺された。重慶を焼き払った後、遵義経由で雲南を目指した。

順治四年(永暦元年)

  • 正月、賊軍は遵義から貴陽へ向かい、大規模な略奪・虐殺を繰り返した。沙定洲の乱を聞き、いったん「討賊」を掲げて明への帰順を装った。
  • 夏四月、孫可望・李定国・劉文秀・艾能奇(もと張献忠の養子で張姓を名乗っていた)が本姓に復し、雲南で東王・諸王を自称。六部・翰林を設け偽の朝廷機構を整え、可望を国主に推す動きも起こったが、楊畏知・沐天波らは強く反発し、雲南の民は「虎を除いて狼を進める」と嘆いた。瞿式耜もこれを憂慮した。

順治五年(永暦二年)

  • 孫可望は李定国・劉文秀・艾能奇を服属させようと図り、王尚礼を通じて能奇を懐柔した。
  • 夏四月、教場での閲兵で定国配下が旧慣を改めなかったことに可望が激怒し、白文選のとりなしで定国を杖打ちにするという屈辱的な事件が起きた。可望は自ら大元帥を称し、定国に沙定洲討伐を命じて罪滅ぼしとさせた。李赤心の降伏を機に、可望は明への帰順を口にし始め、四川巡按錢邦芑の説得にも「王に封じられれば全滇を明に返す」と応じた。

順治六年(永暦三年)

  • 夏四月、孫可望は楊畏知・龔彝を使者に立て、永暦帝に王号を求めた。金堡は「封じれば野心を助長する」と強く反対したが、楊畏知の調停で「景国公」に封じられ、定国・文秀は侯爵とされた。
  • 五月、李定国が安順を攻略。清威道黄応選が定国に「正統の天子を奉じてこそ大功を成せる」と説くが、可望はこれを不快に思った。
  • 陳邦傅は孫可望に取り入ろうと偽の詔勅を鋳造し「監国秦王」に封じたが、定国らは受けなかった。堵允錫は可望を懐柔すべく別途「平遼王」の偽冊を用意し、可望を混乱させた。可望は「秦王」を自称し独自の朝廷制度(駕前軍、令旨など)を整え、張献忠の廟まで建てた。楊展・瞿式耜・金堡らが可望の大逆を弾劾するが、朝廷は対処できなかった。

順治七年(永暦四年)

  • 秋八月、孫可望は財貨を贈って正式な「秦王」冊封を求めたが、朝廷内で議論が紛糾。李自成の残党である高必正が使者を面罵する一幕もあった。
  • 艾能奇の死後、馮双礼を懐柔してさらに勢力を強めた可望は、貴州の皮熊を威圧して服属させ、貴州全土を掌握。年号も独自の「興朝定宝」銭を鋳造し、劉文秀・白文選・王自奇に四川攻略を命じた。
  • 冬十二月、朝廷は劉茞を遣わし可望を正式に「冀王」に封じようとするが、道中で阻まれ果たせなかった。

順治八年(永暦五年)

  • 孫可望は賀九儀を南寧に送り込み、封爵に反対した厳起恆・楊鼎和らを殺害させた。楊畏知も殺され、定国・文秀は可望への憤りを深めた。
  • 冬、可望配下が永暦帝の妃嬪に不祥事を働き、永暦帝が処断する事件も起きた。十二月、可望配下の狄三品らが永暦帝の身柄を強引に移動させた。

順治九年(永暦六年)

  • 正月、永暦帝は広南に移るが、孫可望は「安龍こそ安全」と偽って永暦帝を安龍に軟禁した(曹操・高歓の故智に倣ったものと評される)。
  • 二月、可望は永暦帝への貢納すら制限するようになった。李定国は雲南で兵を練り力をつけ、可望に疎まれながらも劉文秀と共に四川・広西方面への出兵を命じられた。定国は湖南に転戦し桂林を攻略するなど大功を挙げ、永暦帝から西寧王、劉文秀は平南王に封じられた。
  • 御史李如月が孫可望を曹操・王莽になぞらえて弾劾し、可望配下に殺される事件も起きた。定国と可望配下(馮双礼ら)との軋轢が深まり、劉文秀は保寧で大敗し可望に全軍を奪われた。
  • 十一月、李定国は衡州に進むが、馮双礼が可望に内通して軍を引き上げさせたため孤立、可望に武岡へ呼び戻された。馬吉翔は可望への禅譲すら企てたが、定国だけは永暦帝への礼を尽くし続けた。
  • 十二月晦、永暦帝の密勅が林青陽を通じて定国に届き、定国は感激して勤王を誓った。蜀人金公趾の言葉に感じ入り、自らを諸葛亮に、可望を董卓・曹操になぞらえるようになった。

順治十年(永暦七年)

  • 春二月、孫可望が沅州での会見を口実に定国を謀殺しようとするが、龔彝の密告で定国は辛くも脱出。桂林陥落を知り柳州にとどまった。
  • 三月、可望は自ら兵を率いて定国討伐に向かうが、周家坡で清軍(屯斉)に大敗した。
  • 秋八月、可望は馮双礼に定国を再度襲撃させるが、定国の伏兵に大敗し馮双礼を捕虜にした後、寛大に釈放したことで双礼は定国に心服した。
  • 八月、可望は貴州で自ら「国主」を称し独自の朝廷制度を整備。張献忠を「太祖」と称え崇禎帝を貶める言説まで公認された。永暦帝側近の吳貞毓・錢邦芑を除こうとする動きも起きた。

順治十一年(永暦八年)

  • 春正月、可望配下の中にも定国との和解を望む声が上がるが、可望は応じなかった。

順治十二年(永暦九年)

  • 春二月、李定国は高州から南寧に入った。夏五月、劉文秀は常徳で敗れ貴州に退いた。

順治十三年(永暦十年)

  • 春正月、李定国は南寧で劣勢に陥るが、奇策で可望配下の王自明・関有才を撃破し、安隆へ向かった。
  • 二月、可望は白文選に永暦帝の身柄を奪わせようとするが、白文選は錢邦芑の説諭に感じ入り可望への忠誠を捨てる決意をした。李定国が安隆に迫ると、文選は定国を出迎え、永暦帝は雲南へ移ることを決断。雲南を守っていた劉文秀ら可望配下も定国に帰順し、永暦帝は可望の邸を行宮として雲南に入った。定国は晋王、文秀は蜀王、白文選は鞏昌公に封じられ、旧可望配下も相次いで封爵された。

順治十四年(永暦十一年)

  • 白文選は李定国に、輦下に留まる可望配下を和議の名目で遠ざけるよう進言。永暦帝は張虎らを使者として可望の妻子を返還し懐柔を図るが、可望はかえって反意を固めた。方于宣は「兵を煩わせず永暦帝と定国の首を取れる」と可望を焚きつけた。
  • 六月、可望はついに謀反を決意。白文選は幽閉されるが、陳源・馬寶らの根回しで釈放され、大総統として可望討伐軍を率いることとなった。

順治十五年(永暦十二年)

  • 秋八月朔、孫可望が挙兵して反乱。しかし配下の王尚礼が内応し、白文選・李定国らの奮戦で可望軍は大混乱に陥り、可望軍の将士は次々と定国に帰順した。可望は貴州へ敗走する中でも味方に見放され、最終的に僅かな従者と共に長沙へ逃げ込み、洪承疇の下で清に降伏、義王に封じられた。
  • 定国は可望配下だった王自奇・関有才らの反乱を鎮圧し、劉文秀は張虎を捕らえ処刑。永暦帝は白文選・馮双礼・馬進忠らを厚く封じ、可望に殉じた范礦らを追贈・祭祀した。定国は鄭成功・李来亨らとも連携を図ったが、応じは薄かった。

順治十六年(永暦十三年)

  • 春正月、李定国は大理へ留守として赴く。
  • 二月、清軍(尚善・呉三桂)が雲南に進撃し、白文選らが各地で敗退。定国は磨盤山で三重の伏兵を敷いて清軍を待ち構えたが、大理少卿盧桂生の裏切りで計略が漏れ、激戦の末に多くの兵を失った(竇民望・王璽ら戦死)。この間に永暦帝一行とはぐれてしまい、定国は「君臣共に死ぬのみ」と嘆息した。
  • 定国は緬甸との連絡を図るが使者は殺され、白文選は独断でアヴァ(緬甸都城)近くまで進んだが永暦帝の所在を掴めず引き返した。

順治十七年(永暦十四年)

  • 正月、李定国は孟艮に軍を進めるが、馬吉翔の妨害で朝廷への上奏が届かず、身動きが取れなくなった。
  • 二月以降、白文選も緬甸との交渉に難航。配下の裏切りが相次ぎ、定国は賀九儀の妻子を人質に取られても屈しない姿勢を貫き、寝返りを図った部下を処断した。
  • 秋、定国と文選はついに合流し緬甸への攻撃を計画。緬軍十五万との激戦で定国自ら象の鼻を斬り落とすなど奮戦し、緬軍を撃退した。

順治十八年(永暦十五年)

  • 白文選は再三永暦帝への謁見を求めるが果たせず、呉三桂の誘いに応じる将も相次いだ(祁三昇ら)。定国は大金沙江まで進軍し緬甸に道を借りようとするが拒まれ、疫病の流行と食糧難で撤退を余儀なくされた。
  • 秋、再度の緬甸攻撃も暴風で舟を失い失敗。配下の趙得勝・張国用は白文選を見限って離反しかけるが、定国は「文選のことは自分の意志で貫く」と語り、追撃を控えさせた。
  • 冬、呉三桂・愛星阿の清軍が雲南から進撃し、白文選配下の馬寶らが清に投降した。

康熙元年

  • 春正月、李定国は永暦帝が捕らえられたことを聞き、深く落胆した。
  • 夏四月、定国は暹邏(シャム)・古剌(東南アジアの一国)への援軍要請を試みるが、疫病の流行に苦しみながらも明への忠誠を天に誓った。
  • 六月、定国の誕生日に永暦帝と太子の訃報が届き、慟哭のあまり倒れ、絶食の末に病が篤くなった。数日後、招討大元帥晋王李定国は死去した。臨終に子の興嗣と靳統武に「荒野で死すとも、決して降伏するな」と言い残した。定国の墓には草も生えず、現地の人々は今なお礼拝すると伝わる。その後、統武も没し、興嗣もついに清に降った。

史論(蘇子曰)

  • 亡国の禍いの一つは「乱民」である、と論者は言う。孫可望は張献忠の残党を率いて黔・滇に割拠し、帝位すら望んだ悖逆の徒であり、朝臣を殺し宗室を害するに至った。しかし交水の戦いで軍が総崩れとなり、単身で清に降って辛うじて命脈を保ったのみで、後世その爵位も剥奪され、人々の溜飲を下げた。
  • 一方、李定国は同じ賊軍出身でありながら志を異にした。当初こそ可望に従ったが、次第に明への忠誠に転じ、碧鶏の一戦で可望を追い詰め、討伐を成し遂げた。用兵の巧拙では可望の方が狡猾だったが、定国は素朴で剛直でありながらも大義を貫いた。永暦帝を奉じて緬甸まで転戦し、最期まで降伏を拒んだその節義は、鄭成功(思明)や張煌言(蒼水)と並び称されるにふさわしい。
  • 永暦帝が東南で十五年にわたり抗戦を続け得たのは、忠臣義士の献身に加え、こうした降将たちの助力によるところも大きかった。時世の趨勢とはいえ、馬九功・江国泰のような異域での献身もまた、義のために涙するに値するものであった。