續明紀事本末太子の真偽をめぐる裁き(太子之讞)

北京陥落時に脱出した崇禎帝の太子慈烺が、清軍・南京朝廷の間で処遇を巡り翻弄され、南京に現れた太子の真偽を巡る獄が馬士英・阮大鋮らの陥穽により深刻化し、左良玉挙兵の一因ともなった経緯。北京陥落と並行した「北の太子」事件も併記する。崇禎十七年(1644)から順治二年(1645)まで。

年表(14件)

崇禎十七年(1644年)春三月

  • 李自成が北京に迫ると、崇禎帝は太子慈烺(18歳)と永王・定王を周奎・田宏遇の邸へ避難させ、「今日は人主、明日は庶民となる。父母の仇を討て」と諭した。周皇后は三人の手を取り泣いて送り出した。太子は周奎邸で拒まれ外舎に身を潜めた。左都御史李邦華が太子を南京へ監国として送るよう求めたが、光時亨の反対により実現しなかった。

崇禎十七年(1644年)北京陥落

  • 北京陥落後、太子は捕らえられ賊将牛金星の前で屈せず、「父の死は自らの過ちではなく周延儒の任用の誤りだ」と述べ、賊に「帝后を弔い民の殺戮を止めよ」と条件を出した。李自成軍に留め置かれた。

崇禎十七年(1644年)夏四月

  • 賊が山海関に向かう際、太子は同行させられたが、呉三桂が李自成を破ると和議の条件として太子の返還を要求、激戦の末に太子は救出された。三桂は太子を奉じて京師に戻ろうとしたが、多爾袞が三桂に西方追討を命じたため、太子は榆河・西山を経て高起潜のもとに身を寄せ、天津から海路南下した。

崇禎十七年(1644年)五月

  • 南京で福世子(宏光帝)が即位。史可法は「太子の消息未詳のまま即位すれば説明がつかない」と懸念したが、劉孔昭・馬士英が推し進め、宏光帝は即位した。この頃、定王が淮安に現れたとの噂が立つと宏光帝はこれを闇に葬った。

崇禎十七年(1644年)六月

  • 王燮が太子・永王・定王いずれも殺害されたと上疏し、宏光帝はこれを喜び王燮を昇進させた(実際には二王は死んでいなかったとの説もある)。
  • 定王は賊に連れられ湖北・左良玉軍を転々とし、姓を変えて僧となるなど流浪した末、蘇州で身元が露見し捕らえられ処刑された(辛酉年のことという)。
  • 太子は淮安に至ったが定王の変事を聞き止まらず揚州へ南下。高起潜は太子殺害を図ったが、甥の高夢箕がこれを阻み、僕の高成・穆虎が太子を蘇州へ逃した。宏光帝は起潜を召したが、周囲は起潜が太子を伴っていた事実を知りつつ隠した。

崇禎十七年(1644年)冬十二月

  • 太子は杭州の興教寺に身を寄せたが、馬士英が刺客を放った。管紹寧は太子が実際には遭難したと報告した。

宏光元年(1645年)春正月

  • 太子は紹興に至り、旅の辛苦に堪えかね元夕の灯を観て嘆いた。周囲の者は「わが君の子だ」と気づき、高夢箕は発覚を恐れた。

宏光元年(1645年)二月

  • 朱国弼・趙之龍が太子・二王への諡号を奏請、宏光帝は太子に「献愍」の諡を贈るなど死者として扱う手続きを進めた(太子の生存が確実になる前に、先んじてその存在を打ち消す意図があった)。
  • 高夢箕が密かに太子の所在を報告、太監李継周が迎えに赴いた。太子は金華から杭州を経て文武百官の礼を受けつつ南下した。

宏光元年(1645年)三月

  • 太子が南京の興善寺に入り、勇衛軍五百人が警護。宏光帝は北から来た二人の宦官に真偽を確認させたところ、二人は太子と抱き合って号泣したため、宏光帝は激怒して二人を殺害し、継周にも毒殺を命じた。太監盧九徳も後に検分し跪かなかったため太子に叱責され、厳戒態勢が敷かれた。
  • 宏光帝は武英殿で会審を命令。楊維垣が「太子は駙馬王昺の孫・王之明に似ている」と言い出し、士英もこれに乗じ「王之明」説を広めた。劉正宗・戴英らが尋問したが、太子は要領を得た受け答えをしつつも「王之明」と呼ばれることを一笑に付し、確たる決着はつかなかった。
  • 士英らは太子を再度投獄し拷問を加えた。宏光帝は太子の身体的特徴(足の骨格)の証言も無視し、士英の「太子は賊にも清にも死んだはずだ」との言を信じた。

崇禎十七年(1644年)冬・北の太子事件

  • 別に、北京では周奎邸に現れた男が真の太子と称し、姓を変えて生き延びようとしたが露見し捕らえられた。錦衣指揮李時印らはこれを真の太子と認めたが、晋王求桂は偽物と断じた。刑部主事銭鳳覧は「大臣が沈黙すれば小臣も口をつぐむ」と身を賭して太子擁護を訴えたが、多爾袞は「皇子の真偽は問題ではない、鳳覧らは秩序を乱す者だ」として鳳覧・多数の証言者を処刑し、太子は太医院に幽閉、最終的に殺害された(世間はこれを永王と誤認したという)。

宏光元年(1645年)三月(続)

  • 南京の太子はさらに拷問を受けたが屈せず「李継周が御帖をもって私を召したのだ」と正論を述べ、群臣を圧倒した。宏光帝側近の高倬・王鐸は強引に「王之明」と決めつけ、李沾は拷問具(拶指)まで用いた。太子の悲鳴が宮中に響き渡り、旧東宮伴読の邱玖中は捧げ持って慟哭した。城内には太子を憐れむ詩が掲げられた。

宏光元年(1645年)春・童妃の獄

  • 童妃(宏光帝の妃と称する女性)も現れ、その素性を訴えたが宏光帝は取り合わず、屈尚忠に拷問させ、妃は三日で獄死した。潜夫・呉爾壎ら擁護者も逮捕された。劉良佐が太子・童妃両事件の扱いを憂慮する上疏をしたが、宏光帝は「妖婦が宮闈に入れるはずがない」と一蹴した。
  • 御史張兆熊、寧南侯左良玉、湖広総督何騰蛟、九江総督袁継咸らが太子の真偽をめぐる疑義や不透明な処断を次々と上疏したが、宏光帝は「疏を焼却し、流言者は罪に問う」と応じ、左良玉はついに「太子詔を清君側の名目」として挙兵するに至った(詳細は「左兵之叛」参照)。

宏光元年(1645年)五月

  • 宏光帝が南京を脱出すると、監生趙某らが獄中の太子を擁立し武英殿に即位させた。太子は自らの経緯を綴った布告を発したが、まもなく馬士英・阮大鋮・李沾らは逃走、趙之龍は清への降伏を決め、太子を廃させて多鐸に引き渡した。多鐸は太子に錦袍を着せ「真偽は北へ連行の上、明らかにする」と述べ、宏光帝と対面させて詰問したが宏光帝は答えられなかった。

順治二年(1645年)九月・翌年

  • 多鐸により太子は北へ送られ、翌年宏光帝ともども死去の報が伝わった。

総括

  • 著者は、明代に頻発した「偽の皇族」事件(大悲の崇禎帝詐称、広西の宏光帝詐称の僧など)を列挙しつつ、この太子事件は真偽の判定が極めて難しい事案であったと総括する。
  • 太子を航路で南下させながら杭州で拘束し、獄中で竹篦をもって扱った処遇は、童妃を即座に死に至らしめた仕打ちとは異なり、当局が「消しがたいが公にもしがたい」事情を抱えていた証左だとする。
  • 袁継咸・何騰蛟らの上疏は理があり、単なる武人の偏見や文臣の曖昧な弁護とは一線を画すと評価する一方、宏光帝が金匱の故事に倣い太子を厚遇して疑いを解く道を取らず、逆に拷問に及んだことを「恥を自ら招いた」と批判する。
  • 楊維垣が「王之明」説を言い出し、馬士英がこれを利用し、劉正宗・高倬・王鐸が強引に事を決したことを、故君の嗣子を辱める行為として厳しく非難し、著者は歴史家の慎重な伝疑の態度(建文帝の行方を断定しなかった史例)に倣い、本件も断定を避けつつ、馬士英・趙之龍らの亡国の罪を「天理も許さぬ」と結論づけている。