續明紀事本末馬士英・阮大鋮の奸悪の跡(馬阮奸跡)

馬士英・阮大鋮が福王擁立を機に権勢を握り、逆案該当者の名誉回復・売官・党争を進め、正臣を次々に排斥して宏光朝を腐敗させた経緯。左良玉の挙兵と清軍南下により宏光朝が滅んだ後も両名は各地を転々とし、最終的に清に捕らえられ処刑されるまでを描く。崇禎十五年(1642)から順治三年(1646)まで。

年表(19件)

崇禎十五年(1642年)夏五月

  • 馬士英が鳳陽提督となる。士英は貴州の人で、宣大巡撫の任にあった際に弾劾され罷免、南京に流寓していた。同年の科挙合格者である阮大鋮は「逆案」(魏忠賢一党)に連座し同じく南京に潜伏、両者は結託した。周延儒が再び入閣した際、大鋮は登用を求めたが叶わず、士英のために延儒へ賄賂を贈って口利きさせ、士英は兵部侍郎・鳳陽提督となったが大鋮自身は失職のままだった。

崇禎十七年(1644年)春

  • 荘烈帝(崇禎帝)崩御。南京で監国推戴の議が起こり、福王(序列上正統だが素行に難あり)と潞王(賢名あり)が候補となった。銭謙益・雷演祚らは福王擁立に反対、呂大器・張慎言・姜曰広も同調し史可法に「福王擁立の七不可」を伝えた。
  • 馬士英は密かに劉孔昭・韓贊周と結び福王擁立を進め、史可法の答書を得て一転態度を翻し、黄得功・劉良佐・劉澤清の軍事力を背景に福王擁立を押し通した。史可法・高宏図はやむなく従った。呂大器は署名を拒んだが、李沾・劉孔昭の恫喝により屈した。

崇禎十七年(1644年)夏五月

  • 福王が監国。廷推で劉孔昭が馬士英・阮大鋮を推挙するが、史可法は「逆案」該当者を理由に大鋮を拒み、士英を東閣大学士・兵部尚書兼都察院左都御史・鳳陽総督に留めた。
  • 擁立の功を誇る士英は入閣できなかったことに激怒、上疏して勧進を促し、史可法の「七不可」書も暴露した。福王即位後、韓贊周の提案で士英を督師に、史可法を居守にとの案が出たが、士英は逆に史可法へ督師就任を勧め、可法もこれを固辞できず淮揚督師として出立した。
  • 士英は正式に兵部尚書として入閣、子弟にも蔭官を与えた。田仰の私党起用や路振飛への誣告・罷免など専横が始まった。

崇禎十七年(1644年)人事抗争

  • 「逆案」(魏忠賢一党)の名誉回復が図られ、劉孔昭が大鋮の登用を策すが、張慎言の人事に反対し武力で威嚇する事件が起きた。宏光帝は両者を宥めるのみで、張慎言・高宏図・姜曰広ら正臣は相次いで辞意を漏らした。史可法は「党禍が起きた」と嘆いた。

崇禎十七年(1644年)六月

  • 高宏図が士英を避け漕運総督に転じることを願い出て許された。阮大鋮は南京で兵法を語り登用を狙ったが、周鑣・顧杲ら復社の士人が「留都防乱掲」を作って弾劾し、身を潜めた。
  • 国子生魏学濂ら閹党被害者の遺族が大鋮を糾弾。大鋮はこれを恨み、士英・劉孔昭・宦官韓贊周らと結託、東林党が福王を貶めたと讒言した。高宏図が士英の求めに応じ用兵策を上疏した機に乗じ、士英は大鋮の「逆案」該当を「実は冤罪」と主張し始めた。
  • 高宏図・姜曰広・多くの科道官が大鋮登用に猛反対する上疏を連ねたが(羅万象・郭維経・詹兆恒・尹民興・莊元宸・左光先・万元吉・王孫蕃・陳良弼・陳子龍・呂大器ら)、宏光帝は聞き入れなかった。史可法の調停の疏も却下された。

崇禎十七年(1644年)七月

  • 士英が黎玉田・盧世㴶・謝陛ら(実は既に清に降伏していた)の顕彰を求め、銭謙益を礼部尚書に起用。謙益は先に潞王擁立を唱えて士英と対立していたが、恐れて阿諛の疏を上げ、大鋮を強く推薦した。
  • 張慎言が辞任。呂大器も士英らの讒言により罷免され、士英に手紙で弁明したが恨みは解けなかった。詹兆恒が「逆案」進呈を上奏、士英も対抗して「三朝要典」を進めた。

崇禎十七年(1644年)夏~秋

  • 巡按御史黄澍が士英の不法十罪を面前で弾劾したが、士英は宦官田成らに取り入り、宏光帝は結局士英を留任させた。少詹事徐汧の諫言も用いられなかった。
  • 秋七月、張有譽の戸部尚書任命を巡り、高宏図・章正宸が中旨(内批)による人事を封じ返したが聞かれず。士英は「逆案」該当者の罪を軽くする一方、周鍾の弟周鑣らを陥れる「順案」を作った。
  • 左都御史劉宗周が「陛下は士英を寵用するが、士英は逃将高傑を子飼いとし、京営提督の権も独占している」と痛烈に諫めたが、士英は激怒し辞意を表明。朱統𨰥の讒言により宗周・史可法らに丹陽での謀反の疑いまでかけられる騒動となった。

崇禎十七年(1644年)八月

  • 士英は太子太師・武英殿大学士に進み、私党越其傑を河南巡撫に、張捷を吏部左侍郎に据えた。
  • 大鋮は雷演祚を陥れ、周鑣も逮捕された。士英は再三の躊躇の末、ついに大鋮を兵部添設左侍郎に任命。劉宗周・熊汝霖らが反対したが押し切られた。大鋮は「党人が国事を壊した」と自己弁護の疏を上げた。

崇禎十七年(1644年)九月

  • 姜曰広が士英・大鋮に罷免され、劉宗周も辞職。ともに去るにあたり士英を厳しく批判した。給事中吳适・熊汝霖が時局を憂う上疏をしたが罰俸に処された。士英はさらに少保・太子太師・建極殿大学士に進んだ。
  • 史可法が「大鋮の登用に反対する者を罪するのは筋違い」と諫めたが聞かれず。士英は生員・童試への納銀制度や助工例(官職の売買)を大々的に実施し、「都督満街走、職方賤如狗」の俗謡が生まれるほど売官が横行した。得た金は多く士英・大鋮の懐に入った。

崇禎十七年(1644年)冬

  • 許都の乱鎮圧に絡み、祁彪佳が誣告され罷免。徐石麒も士英の封爵要求を拒み罷免された。銭謙益が士英を「孫承宗以来の才」と持ち上げるなど阿諛が進んだ。
  • 李沾の収賄が発覚するも士英が揉み消し、逆に賄賂の玉帯を宏光帝に献上した。高宏図も再三の辞表の末に罷免され、貧窮のうちに浙江に隠棲、国変とともに没した(詳細「殉節」)。
  • 阮大鋮が張捷を吏部尚書に据え、「逆案」該当者を次々登用。大鋮は雷演祚・周鑣を陥れ、復社の士人陳定生らも投獄しようとした。
  • 十一月、史可法の宿遷奪還の報告を士英は嘲笑した。十二月、生童への納銀・売官がさらに拡大、海中の屯田開発も実効なく終わった。

崇禎十七年(1644年)末

  • 楊維垣が「三朝要典」再頒布と「逆案」該当者の大量名誉回復を求め士英が許可、20人余りが顕彰・登用された。
  • 妖僧大悲が崇禎帝を詐称する事件が発生。阮大鋮はこれを利用し、東林・復社系の名士十八人を「十八羅漢」等になぞらえた誣告文書を偽造し陥れようとしたが、士英が大獄化を望まず沙汰止みとなった(史可法・高宏図・姜曰広・黄道周ら多数が対象とされた)。
  • 高傑らの救援要請にも士英は「北兵など恐れるに足りぬ」と応じず、軍餉も出し渋った。布衣何光顕が士英・劉孔昭の大罪を上疏したが処刑された。宏光帝は幼女を漁色し宴楽にふけり、士英らは湖沼の私物化や増税を進めた。阮大鋮は淫楽の劇「燕子箋」を進呈するなど豪奢を極めた。

宏光元年(1645年)春正月

  • 馬士英が首輔に進み、蔡奕琛が阮大鋮の推薦で入閣。士英・大鋮は周鑣・雷演祚の処刑を急いだが、解学龍がこれを緩めようとして左遷された。
  • 衛允文が史可法を讒言し、逆に興平軍総督に抜擢された。史可法が高傑戦死後の後継問題で李本深の統率を求めたが、士英は允文を優遇し軋轢を生んだ。

宏光元年(1645年)二月

  • 阮大鋮が兵部尚書として江防を巡視するも実務は疎かにし、専ら朋党の人事に奔走。袁継咸の軍功推薦を無視し、賄賂次第で将官を任命するなど腐敗が極まった。

宏光元年(1645年)三月

  • 太子(北来太子)の獄が起こり、士英・大鋮は偽物と断じて処断しようとした(詳細「太子之讞」)。士英は「上の意向次第で殺す」と大鋮に語った。
  • 士英は童妃(宏光帝の妃と称する女性)の件でも私憾から逮捕を進めた。方以智は馬・阮の専横を見て「もはやどうにもならぬ」と嘆き、隠棲した。「馬・阮・張・楊、国事速亡」の俗謡が流布した。

宏光元年(1645年)四月

  • 左良玉が挙兵し、士英の大罪八ヶ条を掲げて反旗を翻した。士英は大いに恐れ、阮大鋮・朱大典を督師に任命したが実際には出兵しなかった。周鑣・雷演祚は左軍の挙兵を口実に処刑された。
  • 士英は左軍の東下を防ぐより自軍防衛を優先し、「守江を唱える者は斬る」と叫んで淮揚防備を放棄させ、清軍南下を招いた。

宏光元年(1645年)五月

  • 宏光帝が都を脱出すると宏光帝を見捨て、士英も一族を連れて逃亡。黔兵を率い太后を奉じると称して溧水に逃げた。阮大鋮・楊維垣(怨敵に殺害)・張捷(自縊)ら一味も四散、趙之龍・銭謙益・蔡奕琛・李沾らは多鐸に降伏した。
  • 士英は広徳で抵抗されるも撃破して掠奪、浙江に至り太后を擁して行宮を構えたが、実際には南京陥落の事実を隠していた。

宏光元年(1645年)六月

  • 黄道周が士英の欺瞞を弾劾。清軍が浙江に迫ると士英は紹興・杭州に逃走。九江僉事王思任が士英を痛烈に非難する上疏と書簡を送り、自刎して天下に謝すよう迫ったが、士英は答えられなかった。劉宗周も分巡道于穎に士英の処刑を求めたが実現しなかった。

宏光元年(1645年)冬

  • 士英・大鋮の軍は餘杭・富春山で潰走。清軍に追われ東赭山朱橋范村に逃げ込み掠奪を続けた。

順治三年(隆武二年、1646年)春

  • 士英が隆武帝に朝見を求めるが拒絶された。李遽なる士英の私人が起用され、大鋮は方国安の軍を専横させ隆武系の義軍(孫嘉績・熊汝霖ら)の兵糧を絶ち、浙東義軍瓦解の一因となった。
  • 二月、隆武帝の慰労金を方国安が横領・掠奪、使者陸清源を殺害。大鋮は隆武帝を誹謗する檄文を方国安名義で発した。
  • 四月、清軍が銭塘に迫ると方国安は逃走、士英らは監国魯王を捕らえて降伏させようとしたが、魯王は脱出した。国安・逢年・大鋮らは清に降伏。大鋮は金華攻撃で城南を砲撃し焼き払うなど旧主に牙を剥いた。
  • 大鋮・逢年・国安が密かに隆武帝に内応を約す書を送っていたことが清軍に露見し、清は彼らを誅殺。大鋮は崖から転落死、逢年・国安は市で斬られ大鋮の屍も戮された。士英も蘇州で処刑された(一説には台州で僧となり後に捕らえられ杭州で処刑されたとも)。

総括(史論に相当する末尾の総評)

  • 馬士英は奸邪の資質で主上に取り入り権勢を得た者であり、阮大鋮は狐狗の輩ながら士英に取り入り昇進した。両者は表裏一体で結託し、宏光帝も両者の擁立の功に溺れ荒淫に走ったことが亡国を招いたと総括する。
  • 姜曰広・高宏図・張慎言・徐石麒ら正臣は正義を貫き、史可法・袁継咸・陳潜夫・凌駉ら忠臣は力戦したが、宦官・藩鎮と結んだ士英・大鋮の専横には抗しきれなかった。
  • 士英・大鋮は追い詰められても悔い改めることなく、各地を転々として最後は清に捕らえられ処刑された。著者は両名を「小人の才は乱を僥倖するのみで大事は成せず」と断じ、張捷・楊維垣ら死後に忠臣扱いされた者についても「奔亡の果ての死を忠死と称するのは世を欺くものだ」と厳しく評している。