續明紀事本末南京政権の軍事(南都兵事)

崇禎帝自尽後、南京で福王が監国・宏光帝として即位してから、史可法らの北伐計画が藩鎮の統制不全と朝廷の内紛により潰え、清軍の南下を許して宏光帝が捕らえられ南京が陥落するまでを描く。崇禎十七年(1644)正月から順治二年(1645)五月まで、約1年半の経緯。

年表(13件)

崇禎十七年(1644年)正月

  • 山西の乱兵が鳳陽・淮安一帯に押し寄せた。巡撫路振飛は金聲桓・周仕鳳・周爾敬らに徐州・泗州・清口を守らせ、民兵を集めて数万を得た。

崇禎十七年(1644年)三月

  • 賊が任命した知府鞏克順が淮安に至り、巡按御史王燮がこれを処刑した。まもなく北京陥落の報が届き、路振飛は民衆と共に固守を誓い、漕糧や城壁の防備を整えた。

崇禎十七年(1644年)四月

  • 南京兵部尚書史可法が討賊のため出兵、浦口まで進むが、福王(後の宏光帝)擁立の動きにより引き返した。
  • 王燮が淮安で賊の防禦使呂弼周を捕らえ処刑。路振飛も宿遷で賊将董学礼を破った。
  • 五月庚寅、福王が南京で監国(宏光帝)。史可法を太保・大学士兼兵部尚書とし、張国維・馬士英・祁彪佳らを要職に任じた。江北に四鎮を設置する議も起こる。
  • 左都御史劉宗周が上疏し、討賊復仇と親征、江北への進出、諸将への賞罰の慎重さ、旧官の審査などを説いたが、詔は史館に留め置かれるのみだった。
  • 史可法が南京の鎮撫制度改革を求め、吏部尚書張慎言が中興十議を上奏、兵部尚書張国維が三輔設置を建言したが実現しなかった。
  • 御史郭維経が江北の乱の拡大に警鐘を鳴らしたが、朝廷は反応が鈍かった。
  • 江北に四鎮を分置し督師を揚州に置くことが決まる(詳細は「四鎮之乱」参照)。清の摂政王多爾袞が北京に入り、江南に薙髪令を布告。英親王阿済格・呉三桂が西方の賊を追撃。
  • 史可法は督師として自ら淮揚に赴くことを願い出て許された。京師では「なぜ史公を奪うのか」と惜しむ声が上がった。
  • 史可法辞朝、百官に見送られて出発。以後、劉孔昭・馬士英がますます専横し、高宏図・張慎言の立場は苦しくなった。史可法は鳳陽・泗州の諸陵を祭り、東北の諸陵を思って初心を忘れぬよう上奏した。
  • 大学士高宏図が山東への遷都と討賊の大挙を求めた。
  • 淮揚道の丁啓光らが賊に通じた官吏数名を処刑。丁啓睿が兵部尚書として河南剿寇に起用されたが、かつて敗戦の責を負った人物であった。
  • 朱国弼が路振飛を讒言し危うく逮捕されかけたが免れた。振飛は賊将董学礼を破り、偽の防禦使武愫を捕らえて処刑、東南の秩序を保った。
  • 勇衛営を設置し宦官李国輔を監督とした。旧勲官・宦官への蔭封を復活、国子監典籍李模が諫めたが聞き入れられず。呉三桂を薊国公に封じたが、既に清に降っていたことを知らなかった。
  • 九江総督袁継咸が綱紀粛正と巡幸自重を進言、姜曰広も大計を陳べ、江北・湖南の防備の要を説いたが、馬士英に疎まれた。
  • 阿済格が保定・真定・固関を攻略、明の北直隷は全て失われた。
  • 六月、給事中銭敬忠が親征を求める激しい上疏をしたが斥けられた。
  • 河南では劉洪起・沈万登・李際遇・于大忠ら土豪が堡塁を構え互いに争ったが、最終的に洪起が汝寧一帯を制した(詳細は「義旅」参照)。
  • 済寧都司李元和も偽官を殺して明に帰順したが、馬士英は詔を発することを聞き入れなかった。史可法は単独で監国即位の詔を山東・河北・河南に頒布した。
  • 給事中陳子龍が水軍募集と親征、多方面からの北伐策を上疏したが、実行されなかった。
  • 史可法配下の兵が京口で軍紀の乱れから民衆と衝突し、多数の死者を出す騒乱が発生。巡撫祁彪佳がこれを鎮めた。
  • 安徽巡撫張亮が賊の南下の危険を説いたが、朝廷は顧みなかった。清の粛親王豪格が彰徳・衛輝・懐慶方面から東進し、済南に至り王鰲永を降した。史可法・王燮は四鎮の混乱のため北上できずにいた。

崇禎十七年(1644年)秋七月

  • 給事中章正宸が偏安の風潮を痛烈に批判し、四鎮を河・淮の防衛に充て、軍備・糧食を整えるべきと具体的に上疏。しかし朝廷は使者を派遣して和議を図る方針をとった。
  • 高宏図が対清交渉の条件(陵墓保護、歳幣制限など)を提案。給事中左懋第が北行の使者に選ばれ、経理河北・聯絡関東軍務を命じられたが、降将馬紹瑜・陳洪範が副使とされたことに不満を示した。左懋第は復仇の志を強く訴えて出発した。史可法は「和議は名目に過ぎない」として山東・河北の義士の協力を用いなかった。
  • 廷臣は旧例に従うのみで、柳園の戦功により陳潜夫・劉洪起・李際遇が昇進したが、実際に河北へ出兵する軍はなかった。多爾袞が降将魏公翰を通じて江南に招降を呼びかけ、史可法にも書を送ったが、可法は「大一統」の義を説いて拒絶する返書を送った。
  • 万元吉が呉三桂の清への服属を報告したが朝廷は動じなかった。豪格軍が青州・東昌・臨清・登州・莱州を陥落させ、董学礼らが清に降った。路振飛の憂罷(辞任)に伴い田仰が後任となったが施策を一変させ、義兵は瓦解した。
  • 闖賊(李自成残党)が洛陽方面から東昌に偽の招降文を発した。
  • 八月、史可法が淮南・鳳陽・寿州を巡閲。光禄寺少卿沈廷揚が海運水軍設置を求めるも実現せず、逆に呉三桂への軍糧輸送に使われた。
  • 左懋第は滄州で呉三桂の降伏を知り、宏光帝の冊命を伝えようとしたが三桂は受け取らず多爾袞に献じ、多爾袞は怒った。
  • 馬士英が越其傑を河南巡撫に据えるなど私党を用いた。刑部侍郎賀世寿・万元吉が江北防衛の危機を訴えたが、朝廷は逆に「逆案」を復活させ東廠を再置するなど内政に傾いた。
  • 呉三桂の父母への官職追贈が行われ、王永吉が山東軍務督師を命じられた。
  • 都督陳謙が叛将鄭芝龍を南安伯に封じ入衛を求めたため、福建は結果的に滅亡に至った(詳細後述)。
  • 阮大鋮が長江防衛策を上疏し兵部添設右侍郎に任じられ、江防巡視を兼ねた。
  • 阿済格が山西全域を制圧、降将楊方興が済寧を陥落させ、山東・山西の明の地は全て失われた。

崇禎十七年(1644年)九月

  • 高傑が儀真で黄得功を襲撃、史可法が調停した(詳細「四鎮之乱」)。
  • 諸鎮の配置替えが行われ、黄斌卿・黄蜚・鄭鴻逵・王之綱・曹友義・劉良佐・杜宏域らがそれぞれ屯所に配された。越其傑に軍資十五万両が与えられたが横領された。
  • 尚書黄道周が入閣を求められ進取九策を上奏、翌年禹陵祭祀を願い出て北伐の具体策(山東・河北への進軍路)を上疏したが用いられなかった。
  • 監軍宋劼、工科李清が財政の窮迫を指摘。河南巡按陳潜夫が中原恢復の具体策を上奏したが黙殺された。
  • 史可法が李成棟らを諸鎮に配し開封方面への進軍を計画したが、馬士英・阮大鋮が兵糧を出し渋り実現しなかった。

崇禎十七年(1644年)冬十月

  • 降将張縉彦が北直・山西・河南・河北の総督に任じられるなど人事の混乱が続いた。
  • 湖北・偏沅・四川が賊に乱れ、福建でも賊が蜂起し漳州・汀州で残虐な掠奪が行われた。
  • 劉澤清が防備の献策をしたが実効なく、馬士英は北使への礼遇強化を優先した。
  • 財政窮乏の中、馬士英が黔兵の道筋で民と衝突を招くなど混乱が続いた。
  • 河南では越其傑が陳潜夫の善政を覆し、劉洪起・李際遇・蕭応訓ら諸勢力の連携が乱された。
  • 十一月、史可法が北伐に出発、宿遷を巡り成徳の攻撃を退けたが、馬士英はその功を軽んじた。
  • 劉澤清が壕堡での防河策を上疏。河防の分担が定められたが、清軍はすでに莒・沂まで侵入していた。
  • 史可法は甲杖・糧食も得られぬまま「偏安では自立できない」と痛切な上疏を重ねたが、宏光帝は災異にも動じなかった。
  • 許定国が開封・宛・洛の鎮守を任され、これが後の睢州の変を招くことになる(詳細「四鎮之乱」)。
  • 左懋第が清に抑留され、和議は絶えた。陳洪範は密かに降伏し馬紹瑜も降った。懋第は節を守り死んだ(詳細「東南殉節」)。

崇禎十七年(1644年)十二月

  • 陳洪範が帰還し清軍接近を報告。宏光帝は「款和は頼みにならぬ、諸臣は武備を整えよ」と応じたが実効は伴わなかった。
  • 河防の担当を再編したが、屯田策も土質不良のため実らず、馬士英は「昔より兵力は勝る」と楽観論を唱えた。高起潛は出兵の命を受けても動かなかった。
  • 史可法は邳州救援に赴き、七度上疏したがいずれも黙殺された。
  • 高傑が徐州に至り叛将程継孔を誅した(詳細「四鎮之乱」)。
  • 清の準塔・多鐸両軍が進撃し、李際遇が投降、洛陽が陥落。史可法は東南半壁の危機を訴えたが応答なし。
  • 多鐸が鄧州に迫るが宏光帝は新年の宴楽にふけった。

宏光元年(1645年)春正月

  • 史可法が軍の飢えを憂い禁酒令を出したが辞任は許されなかった。袁継咸が奢侈を戒める上疏をしたが用いられなかった。
  • 河南で劉洪起が賊軍を襄城で大破し昇進。胡茂楨らが虎牢で叛いた。
  • 馬士英が江北諸軍を召還しようとし、史可法や諸臣が河防維持を求めたが士英は聞かず、自ら浦口に赴くよう史可法に迫った。左良玉の死後、その子夢庚が挙兵し九江以下を席巻したが、黄斌卿・黄得功に破られた(詳細「左軍之叛」)。
  • 劉洪起が汝寧・開封方面の援剿総兵官に任じられた。

宏光元年(1645年)夏四月

  • 多鐸が歸徳・亳州方面から進軍、許定国の手引きで徐州を陥落。高傑軍は撤退し、史可法は淮南から支援に走ったが間に合わず、泗州も陥落した。
  • 史可法は揚州に籠城し徹底抗戦を指揮したが、部下の裏切りや援軍の欠如により孤立、揚州城は陥落し可法は戦死した(多鐸による揚州十日の惨劇)。
  • 阿済格が西安を制圧、陝西・甘粛は全て失われた。

宏光元年(1645年)五月

  • 宏光帝は遷都を議したが決せず、馬士英は逃亡の算段のみをした。多鐸が瓜洲・鎮江を突破し長江を渡った。
  • 宏光帝は南京を脱出、太平・蕪湖を経て黄得功の軍に身を寄せた。得功は忠義を尽くす覚悟を示したが、追撃してきた叛将田雄・馬得功らに宏光帝は捕らえられた。得功は自刎して果てた。
  • 趙之龍・銭謙益ら南京の文武百官は多鐸に降伏し、南京は無血開城となった。

宏光元年(1645年)六月~九月

  • 清軍がさらに南下し、蘇州・杭州・嘉興・湖州・寧波が次々陥落。劉洪起は汝寧で敗死し、河南・湖北・安徽・南直隷・浙西の明の版図は全て失われた。
  • 秋九月、宏光帝は北へ送られ、太后は道中で入水した。

順治二年(隆武元年、1645年)春三月

  • 広西で僧侶が宏光帝を詐称する事件が起きたが、偽物と判明し処刑された。

順治二年(1645年)夏五月

  • 宏光帝の死が伝えられた。蘇松地方の義兵もこの頃鎮圧された(詳細「東南義旅」)。

総括

  • 崇禎帝が煤山で殉節したあと、南京で監国が立てられたが、実態は江南の一隅を保つに過ぎなかった。史可法らは義兵を挙げて北伐を唱えたが、藩鎮への統制が乱れ、江北の防備は形骸化していた。
  • 陳子龍・陳潜夫・凌駉・劉宗周・袁継咸ら忠臣の献策は用いられず、朝廷は讒言と党争に終始した。王永吉・張縉彦ら要職の将は降伏・逃亡を重ね、田仰・楊文驄・黄斌卿・鄭鴻逵らも防備の任を果たせなかった。
  • 四鎮の統御に失敗し武昌の変にも対処できず、南京はついに為す術なく陥落した。福王(宏光帝)の即位の正統性には当時から疑義があったが、著者は「綱鑑」の精神に基づき隆武・永暦帝と並べては特筆しない、と断りつつも、宏光帝自身の柔弱・荒淫な治世を、亡国の因として厳しく評している。