龔勝の死
- 謁者を遣わし、節と安車と印綬を持たせて、楚国の龔勝を太子師友祭酒、秩は上卿として招いた。
- 使者が郡に着くと、太守・県邑の長吏・三老・官属・徳行ある諸生ら千人が龔勝の家に入り、詔書を伝えた。勝は病が重いと称した。使者が印綬を勝にかけると、勝はそのたびに押し戻した。使者は自ら上申して、しばらく留まり秋の涼しくなるころに勝を出立させたいと請うた。
- 勝は免れないと悟り、門人の高暉らに言った。私は漢の厚恩を蒙った。どうして一身をもって二つの姓に仕えられよう、と。ついに食を絶ち、十四日で死んだ。
- ある老人が弔って哭き、深く哀しんで言った。ああ、薫草は香りのゆえに自ら焼かれ、脂は明るさのゆえに自ら消える。龔生はついに天寿を全うできなかった。私の同類ではない、と。そして出て行き、誰であったか分からなかった。
- 勝は字を君賓。同郡の龔舎(字は長倩)と親しかった。それゆえ世に「両龔」と称され、ともに節義で知られた。
- 勝は哀帝の時に諫議大夫となり、龔舎と寧壽を薦めて、いずれも召された。勝は、ひそかに見るに国は巫医にすら車馬を与えている、賢士にも車を与えるべきだ、と言い、詔してそれに従った。寧壽は病と称して来ず、龔舎は来て諫議大夫に任じられたが、病で免ぜられた。
- そこで在宅のまま太山太守に任じようとした。使者が県に至って、舎に庁舎へ来て拝命するよう請うた。舎は、王者は天下を家とする、なぜ官庁でなければならないのか、と言った。そこで自宅で拝命した。任地に至って数か月、病を理由に退官を願って帰った。
- 兄の子の曼容もまた志を養い身を修め、官は六百石を超えることを肯じず、超えればそのつど自ら辞去した。
- 莽が安車で斉の薛方を迎えようとすると、方は言った。堯舜が上に在れば下には巣父・許由がいる。今、主上はまさに唐虞の徳を盛んにしておられる。ならば小臣も箕山の節を守りたい、と。莽は喜んでこれを許した。
- 隃糜の郭欽、杜陵の蔣詡(字は元卿)はいずれも郡守・刺史として廉恥で名を著した。斉国の栗融(字は客卿)、北海の禽慶(字は子夏)、蘇章(字は山陽)、曹竟(字は子期)はいずれも大儒で、そろって莽に仕えなかった。
怪異と黄河の治水論
- 池陽に小人の影が現れた。長さ一尺余りで、車馬に乗るものもあれば歩くものもあり、さまざまな物を手にしていた。大小それぞれが名乗った。三日でやんだ。
- 海辺で蝗が発生した。黄河が氾濫し、清河以東の数郡に及んだ。
- 莽は治水のできる者を召し、集まった者は百を数えた。おおよその議論は次のとおりである。
- 長水校尉で平陵の関並が言った。河が決壊するのはおおむね平原・東郡のあたりである。その地形は低く土は粗く脆い。禹が河を治めたときはもともとこの地を空けたと聞く。南北は百八十里にすぎない。河のためにこの地を空けても、官の亭と民の家がなくなるだけである、と。
- 大司馬掾の張式が言った。水の性は低い方へ流れ、流れが速ければ自ら削って窪みを作り次第に深くなる。河の水は重く濁っており、一石の水に六斗の泥といわれる。今、西方の諸郡や京師の民が河や渭の水を引いて田に灌いでいる。春夏の水の少ない時期には河の流れが遅くなり、泥が溜まって次第に浅くなる。雨が多く少し出水しただけで溢れて決壊する。しかも国家がたびたび堤で塞ぐので、河床は次第に平地より高くなった。垣を築いて水を貯めているようなものである。その性に順い、もはや灌漑に用いないようにすれば、水道は通じて溢れ決壊する害はなくなる、と。
- 臨淮の韓牧は、禹貢の九河のあたりでおおよそ河道を掘ればよい、九つにできなくとも四つ五つでも益があるはずだ、とした。
- 大司空掾の王璜が言った。河が渤海へ入る所の地は、韓牧が掘ろうという場所より高い。かつて長雨と東北風が続き、海水が溢れて西南へ出て数百里を浸し、九河の地はすべて海水に浸された。禹が通した河水はもと西山の下から東北へ流れていた。周書に「定王五年に河が移った」とある。とすれば今の流路は禹が掘ったものではない。また秦が魏を攻めて河を決壊させ都を水攻めにしたが、その決壊箇所はそのまま広がって修復できなくなった。退いて完全な平坦地へ移し、改めて掘って、西山の麓に沿い高地を伝って東北から海に入るようにすれば、水害はなくなる、と。
- しかしいずれも実行されなかった。