匈奴との断絶と甄尋の獄
- 莽の(前年)九月戊巳、校尉史の陳良と終帯がともに校尉の刁護を殺し、吏士を略奪し、漢の大将と自称して匈奴へ逃げ込んだ。
- 十二月、匈奴の雷を改名し、単于の号を「降奴服于」と改めた。
- 当時、多くの者が符命を作って封侯にありつこうとした。それをしない者は、天帝だけが自分に任官の書をくれない、と冗談を言った。これ以後、莽はこれを禁じた。
- 初め、甄豊・劉歆・王舜らは安漢公・宰衡の号を立てたが、莽に居摂させるところまでは考えていなかった。莽が真に即位すると、歆と舜は内心恐れ、豊は性が剛直なので顔色に表れた。
- 豊の子の尋がまた符命を作り、もと漢の平帝の后である黄皇室主を尋の妻とせよと言った。莽は激怒して尋を捕らえ、いずれも死んだ。連座した者は数百人。
- 供述が揚雄にまで及んだ。雄はそのとき天禄閣で校書していた。使者が捕らえようとしたので、雄は恐れて閣から身を投げ、危うく死ぬところであった。莽はこれを聞き、雄は日ごろ政事に関わらないのになぜこの件に出てくるのか、と問わせた。劉歆の子の棻が雄に奇字を尋ねていたためであった。詔があって問わずにすんだ。
- 莽の人となりは、口が大きく顎が突き出、目が露わで瞳は赤く、声は大きくしわがれ、身の丈七尺五寸。厚い履と高い冠を好み、髷を反らして仰ぎ見るようにしていた。ある者は、その相は鴟の目、虎の喙、豺の声である、だから人を食らうこともでき、また人に食われもする、と言った。莽はこれを聞いてその者を誅した。
- 王舜は莽の即位以来、動悸の病で死んだ。