前漢紀前漢孝平皇帝紀 居攝元年 6年

劉崇の挙兵と張竦の奏

  • 春二月、嬰を皇太子に立て、孺子と号した。
  • 夏四月、安衆侯の劉崇が丞相の張紹と謀り、安漢公は必ず劉氏を危うくする、自分が宗族を率いて先んじれば天下は必ず呼応する、と言った。ついに一万余人の党を集めて宛城を攻めたが、入れずに敗れた。
  • 張紹は張竦の従弟である。竦は劉崇の族父の劉嘉とともに宮闕に出頭して自ら帰順した。莽は赦して罪に問わなかった。
  • 竦は劉嘉のために奏文を作った。その論旨はこうである。
  • 建平から元寿にかけて漢の大統はほとんど絶えかけた。陛下の聖徳が国の命脈を救い、再び延ばした。朝に臨んで政を統べるにあたっては、事あるごとに宗室を先とし、九族の登用を第一とされた。乱れればその筋を正し、危うければ安んじ、禍あれば福を招き、絶えれば継ぎを接ぎ、幼ければその任に代わった。朝夕たゆまず努められ、すべては天下において劉氏を厚くするためであった。辟雍を建て明堂を立て、大いなる法を布き聖なる教化を広めた。天下は仰ぎ見て嘆じ、頌える声が満ち満ちた。人は賢愚を問わず男女ともにその御意を理解している。
  • それなのに劉崇ひとりが道に背く惑いの心を抱き、叛逆の企てをめぐらせた。その悪は聞くに忍びず、罪は誅しても償えない。まことに子臣の仇であり宗室の敵である。だからこそ親族は震え上がってその罪を告げ、民は離散してその武器を捨てた。進んでは半歩も出られず、退いても災いを免れなかった。
  • 臣は聞く、叛逆の国は誅討された後、その宮を水浸しにして汚池とし、汚れと濁りを溜めて凶墟と名づける。そこに菜が生えても民は食べない。その社は四方を壁で囲み、上を覆い下を塞いで戒めとする、と。
  • 臣は憤りの情に堪えない。願わくは宗室のために先駆けとなり、父子兄弟が畚を持ち鋤を担いで南陽へ駆けつけ、劉崇の宮室を水浸しにして古の制のとおりにしたい。崇の社もまた亳社・杜社の例に倣うべきである、と。そして盛んに功徳を称えた。
  • 莽は大いに喜び、劉嘉を師礼侯に封じた。七日、一族にはみな関内侯の爵を賜い、張竦を淑徳侯に封じた。長安ではこう言われた。封を得たければ張伯松に及ぶ者はない、力戦するより巧みに奏文を作る方がよい、と。以後、叛いた者の居所はみな汚池にされたという。
  • 群臣がさらに太后に申し上げた。劉崇らが謀反したのは莽の権が軽いからである。莽を尊んで天下を鎮めるべきである、と。
  • 五月甲辰、莽は仮皇帝と称した。
  • 冬十月丙辰、日蝕があった。
  • この年、西羌の龐恬・傅幡が反した。護羌校尉の竇況を遣わして平定させた。