前漢紀前漢孝平皇帝紀 二年 7年

貨幣改鋳

  • 春、竇況が西羌を破った。
  • 夏四月、貨幣を改鋳し、錯刀は一つで三十、契刀は一つで五百、大銭は一つで五十に当たるものとし、五銖銭と併用した。

翟義の挙兵

  • 九月、東郡太守の翟義が厳郷侯の劉信を天子に立てた。信は東平王雲の子である。
  • 翟義は翟方進の末子である。義は兵を起こそうとして、姉の子で上蔡の陳豊に言った。莽は必ず漢に取って代わる。わが父子は国の厚恩を受けた。国のために賊を討つべきである。たとえ時が至らず成らなくとも、国に殉じて名を埋めれば先帝に恥じずにすむ。お前は私に従うか、と。豊は十八歳で壮健勇敢、承知した。
  • そこで東郡の劉宇、厳郷侯の劉信、信の弟の璜と謀を結んだ。初め、信の兄の開明が王に立てられたが子がなく、信の子の匡が嗣いで東平王となっていた。それゆえ義は東平王をあわせて信を立てたのである。
  • 義は自ら大司馬柱天大将軍と称し、東平王の傅の蘇隆を丞相、丹を御史大夫とした。東平王の孫卿はかねて智略があり兵法に明るく京師にいた。義は偽の文書を回し、重罪の者として孫卿を護送させた。
  • 郡国に檄を回し、莽が平帝を毒殺し天子の位を摂して漢を絶とうとしている、今すでに天子は立った、謹んで天の罰を行う、と告げた。郡国は震え動いた。山陽に至るころには衆は十余万に達した。
  • 莽は恐れおののき、孺子を抱いて郊廟に祈り、策文を作って告げ、諫議大夫の桓譚らを遣わして、天下に政を返す意向を告げ諭させた。
  • そして翟義の一家を族滅した。後母および兄の宣もみな死んだ。
  • 王邑・孫建ら十八人を遣わして兵を率いて翟義を撃たせ、また腹心の七将軍を置いて関中に屯営させ自らの備えとした。
  • 冬十二月、王邑らが翟義を破り、劉璜を斬った。義と信は軍を棄てて逃げた。義は捕らえられ、屍が長安へ送られて都の市で磔にされ晒された。信はついに捕らえられなかった。
  • 初めに挙兵を聞いて、茂陵以西の二十三県で賊がことごとく蜂起した。趙明・霍鴻らが将軍を自称して吏民を略奪し、衆は十余万。その火は未央宮の殿前からも見えた。