前漢紀前漢孝平皇帝紀 三年 3年

王莽の娘の立后

  • 春、詔して、二王の後裔および周公・孔子の家系の世卿・列侯で長安にいる者の嫡子・嫡女を広く候補に採らせた。王氏の娘が多く選に入った。
  • 莽は自分の娘が他の娘と位を争うことを恐れ、上書して、莽の娘は諸家の娘と並べて採るべきでない、と言った。太后はこれを至誠と受け取り、詔して、王氏の娘は朕の外家であるからみな採るな、とした。
  • そこで関を守って上書する吏民が千余人に上り、安漢公の娘を天下の母にしたいと願った。太后はやむを得ず莽の娘だけを候補とした。群臣・卿士はこぞって安漢公の娘が后となるべきだと言い、蓍と亀で占うといずれも「元吉」と出た。そこで婚礼の式を定め、十二女を娶る制の適否を正した。
  • 夏、安漢公が奏して、車の制度の適正、吏民の養生送死・婚姻・奴婢・田宅・器械の等級、郡国の学校における教育の礼を定めた。
  • 陵陽の任横らが将軍を称し、武器庫の兵器を盗んで役所を攻めたが、皆誅に伏した。
  • 秋八月、天から草が降った。形は莎に似て、絡み合って弾丸のようであった。

王宇の獄と衛氏の誅滅

  • 莽の世子の宇は、莽が衛氏を隔離していることを非とし、帝が成長した後に恨むことを恐れて、ひそかに帝の外舅の衛宝に働きかけ、帝の母に上書させて入朝を求めさせた。莽は太后に取り次いだが許されなかった。
  • 宇は妻の兄の呂寛と、師の呉章とその方策を議した。呉章は、莽は諫めても聞かないが鬼神を好むとして、怪異になぞらえて説き、莽に政を衛氏へ返させようと図った。
  • 宇は呂寛に命じて夜、血を莽の邸の門に灑がせた。吏がこれを見つけ、宇を捕らえて獄に送り、妻ともども死んだ。衛氏はことごとく誅滅された。
  • この事件を徹底的に糾明し、呂寛に連座した郡国の豪傑のうち、日ごろ自分に従わない者を市の門で殺した。天下は震え上がった。
  • 呉章は大儒で、教えた門人は千余人。莽はその門人をすべて禁錮しようとし、門人は名を改めて他の師についた。
  • そのとき司徒掾で平陵の侯である李敞ひとりが、自ら呉章の弟子であると申し出て、章の屍を収めて葬った。王舜はこれを聞いて義とし、欒布になぞらえ、上表して諫議大夫とした。