封建と災害
- 春、黄支国が犀牛を献じた。
- 三月癸酉、大司空の王舜が病死した。
- 夏四月、代孝王の玄孫の子の如意を広宗王、江都易王の後を継いだ盱台侯の宮を広川王、広川恵王の曾孫の倫を広徳王に立てた。周勃・霍光・樊噲の後裔をいずれも列侯に封じ、酈商らの子孫百三十人に関内侯の爵と食邑を与えた。
- 丁酉、少傅の甄豊を大司空とした。
- 夏、大旱魃と蝗害があり、青州がとくにひどかった。安漢公・四輔・公卿大夫・吏民のうち、百姓の窮乏のために田宅を献じた者は二百三十人。それを貧民に分け与えた。安定の池苑を廃して安民県とした。
- 六月、石が鉅鹿に二つ隕ちた。
- 秋九月戊申晦、日蝕があった。天下に赦を行った。
孫宝
- この年、光禄大夫の孫宝を大司農とした。宝は字を子厳、潁川の人。
- 初め御史大夫の張忠が自分の子に経を教えさせようとしたので、宝は自ら弾劾して職を去った。忠は詫び、後に宝を主簿とした。
- ある人が宝に、高潔な士は主簿になどならないのに、あなたはなぜ引き受けたのか、と問うた。宝は答えた。大夫が推薦して用い、府中の誰もそれを非としないのに、どうして自分ひとりだけ高ぶれよう。先日、あなたの子息が学問をしたいと言い、私を身近に移そうとした。礼では来て学ぶとは聞くが、こちらから出向いて教える義はない。道は曲げられないが、身を屈するのが何の傷になろう。まして不遇の者に何ができないことがあろうか、主簿くらい何ほどのことか、と。忠はこれを聞いて深く恥じ、宝を推薦して議郎とした。
- 後に丞相司直となった。紅陽侯の立が南郡太守の李尚と結んで不正な利を図った。宝は剣に手をかけて立と尚を弾劾した。尚は獄に下って死に、立は罪に問われなかったが、後に結局この件で廃された。
- 後に京兆尹となった。処士の侯文はいつも病と称し、剛直で仕えようとしなかった。宝は礼を尽くして自ら請い、文と身分を超えた交わりを結んだ。立秋の日、文は自ら願い出て督郵の職を受けた。
- 杜稚季という大侠がおり、定陵侯の淳于長と親しく、長は稚季のことを深く宝に頼んでいた。文はこれを誅そうとした。宝がその次は誰かと問うと、文は「豺狼が道をふさいでいるのに、どうして狐や狸のことを問うのか」と言った。宝は黙って応じなかった。
- 稚季はこれを聞いて門を閉ざして出ず、裏の壁を穿って小さな戸を作り、朝夕自ら鋤を持って畑を耕し、決して法を犯さなかった。
- 越嶲郡が、黄龍が川の中を遊んだと上言した。大臣たちは莽の功徳が周公に比すると称えた。孫宝は言った。周公は上聖、召公は大賢であったが、それでも召公はなお納得しなかった。今、一つの事に群臣が声をそろえるのは、かえって善からぬことではないか、と。大臣は皆顔色を失ったが、宝は顔色を変えなかった。宝は連座して免官され、家で生涯を終えた。