前漢紀前漢孝哀皇帝紀下 二年 前1年

春 単于の来朝と楊雄の諫め

  • 春正月、匈奴の烏珠留単于と、烏孫の大昆彌である伊秩靡が来朝した。伊秩靡は公主の外孫である。
  • 単于が朝見しようとしたとき上書して自ら願い出た。当時、天子は病があり、側近はみな、匈奴が来朝すると中国には必ず大事が起こる、と言った。天子はこれによって難色を示した。公卿に諮ると、彼らも府庫の無駄遣いになるので今は許さなくてよいとした。
  • 単于の使者が暇を告げ、まだ出発しないうちに、黄門郎の楊雄が上書して諫めた。
  • 六経の治は乱れる前を貴び、兵家の勝は戦う前を貴ぶ。今、単于が上書して朝見を求めているのに国家が許さない。臣は匈奴がこれによって隙を生じると考える。
  • 北狄の地は五帝も臣従させられず、三王も制御できなかった。秦始皇の強大さ、蒙恬の威、数百万の武装兵をもってしても西河をうかがえなかった。漢は高祖の威霊と四十万の兵をもってしても平城で苦しんだ。孝文の時には北辺を侵され、烽火が甘泉まで届き、京師は大いに驚き、三将軍を発して細柳・棘門・覇上に屯営させて備えた。
  • 孝武は即位すると馬邑の計略を仕掛けて匈奴を誘おうとしたが、察知されて去られ、いたずらに財を費やし軍を疲れさせた。その後、深く社稷の計を思い万世の基を広げようとして、数十万の大軍を起こし、十余年にわたって兵を連ねた。
  • こうして西河を渡り大漠を越え、顚顔を破り単于の王庭を襲い、その地の果てまで攻め入り、狼居山に封じ姑衍に禅し、澣海に臨んだ。捕らえた名王・貴人は百を数えた。これ以後、匈奴は震え恐れ、ついに和親を求めた。しかしまだ臣と称することは承知しなかった。
  • 前代がどうして計り知れぬ費えを傾け、罪なき人を使役し、沙漠の北で気を晴らすのを楽しんだであろうか。一度苦労しなければ長く安逸を得られず、しばらく費やさなければ永く安寧を得られないと考えたのである。だからこそ百万の軍を飢えた虎の口に投じることに耐え、府庫の財を運び尽くして盧山の谷に埋め捨てても悔いなかった。
  • 宣皇帝の初めにも虜はなお凶暴な心を抱き、烏孫を掠め公主を侵そうとした。五将の軍十五万騎を発してその南を掃討し、長羅侯が烏孫の五万騎をもってその西を震わせた。そのときの獲物は少なく、ただ威武を奮い、漢の兵が雷風のようであることを示したにすぎない。ゆえに北狄が服さなければ中国は枕を高くできない。
  • その後、匈奴に内乱が起こり五人の単于が位を争い、日逐王と呼韓邪が国を挙げて帰化し、伏して臣と称した。それでもなお緩やかに繋ぎとめるばかりで、完全に制することはできなかった。これ以後は、朝見を望む者を拒まず、朝見しない者を強いなかった。
  • 服さぬ間は軍を労して遠くを攻め、国を傾け財を尽くし、屍を伏し血を流し、堅陣を破り敵を敗るのがあれほど困難だった。服してからは、慰め労わり撫でめぐらし、交わりを結び贈り物をし、威儀と応接をこれほど整えている。
  • かつては大宛の城を屠り、烏桓の砦を踏みにじり、姑繒の塁を探り、蕩姐の地を蹂躙し、鮮卑の旗を倒し、南越の旗を押し倒した。近ければ十日か一月の役、遠くても三季の労を超えなかった。だからその庭を耕しその小屋を掃き、郡県を置いて治め、雲が晴れ席を巻くように、後に災いを残さなかった。
  • ただ北狄だけはそうではない。まことに中国の仇である。他の三方に比べればかけ離れている。
  • 今、単于は真心から義に帰そうとしている。これは上代が遺した実りであり、神霊が助け望むところである。どうして来るなという言葉で拒み、期日のない話ではぐらかし、往時の恩を消し、将来の隙を開き、みずから漢と絶えさせ、ついに北面する心を失わせるのか。威してもきかず諭してもできなくなったとき、憂えずにいられようか。
  • 牛を養うのに骨を折っても、一朝にしてこれを失う。十を費やして一を惜しむようなものである。臣はひそかに国のことを安んじられない、と。
  • 天子はそこで匈奴の使者を召し返して朝見を許し、楊雄に帛五十疋と黄金十斤を賜った。

楊雄の人となりと著作

  • 楊雄は人となり博学で大志があり、性は清らかで欲が少なく、簡素でおおらかであった。口では激しく論じられず、黙って深く思索した。貧しく暮らし、わずかな蓄えもないこともあったが平然としていた。義にかなわなければ富貴であっても仕えなかった。
  • 給事黄門郎として王莽・董賢と同位であった。当時、王莽や董賢が推す者は必ず抜擢されたが、雄は三代の間、官を移らなかった。栄達や寵遇に淡いことはこのようであった。
  • 時の人は皆これを軽んじたが、劉歆と范逡だけは礼をもって敬い、沛国の桓譚は甚だ重んじ、鉅鹿の侯芭は師事した。
  • 雄は賦や頌を好み、その点は司馬相如に似ていた。晩年には益がないとしてやめ、易に依拠して『太玄経』を著した。その文は五十万言、三十の筮竹で占い、吉凶を関連づけ、人事に及ぼした。義は五経に合い、辞は解き明かす。玄体十一篇を作り、さらに章句を著した。また『法言』十四篇を著し、論語に象ろうとした。
  • 劉歆がかつて桓譚に、雄の文は後世に伝わるだろうかと問うた。譚は答えた。必ず伝わる。ただし君も私もそれを見ることはあるまい。人情は遠いものを貴び近いものを軽んじる。雄の容貌や爵位を見ても人を動かさないから、その文まで軽んじるのだ。もし後世に見識ある君子に出会えば、諸子を凌駕するだろう、と。

二月以降 哀帝の崩御

  • 二月、単于と昆彌が帰国した。
  • 夏四月、日蝕があった。
  • 五月、三公の官を正して職掌を分けた。丞相の孔光を大司徒、御史大夫の彭宣を大司空とし、長安侯に封じた。
  • 六月戊午、帝が未央宮で崩じた。

董賢の死と王莽の台頭

  • 当時、王莽は侯として邸に居たが、太后がこれを召して喪事の補佐に当たらせた。莽は太后に申し上げて大司馬董賢の印綬を取り上げた。賢は妻とともに自殺し、夜のうちに葬られた。
  • 莽は死を偽ったのではと疑い、棺を掘り出して獄に運んで検分させ、そのまま獄中に埋めた。
  • 賢のもとの吏で沛の朱詡は、自ら大司馬掾を辞して賢の屍を収めた。莽は怒り、別の事にかこつけてこれを殺した。
  • 賢の家族は合浦に流された。董氏の財物を売り払うと、合わせて三十五万に上った。
  • 太后が公卿に大司馬たるべき者を推挙させた。群臣はみな王莽を挙げた。
  • 前将軍の何武は後将軍の公孫禄と語らって言った。かつて孝昭の代には外戚が権を握り社稷を危うくしかけた。今、異姓の大臣に権を持たせず、親疎を交ぜて配さないのは、国のための計として不都合である、と。そこで公孫禄が何武を大司馬に推し、何武もまた公孫禄を推した。
  • 王莽は有司にほのめかして、互いに弾劾し合い互いに推挙し合ったとして奏上させ、二人とも免じて封国へ退かせた。
  • 大司馬の彭宣は王莽の専権を見て退官を願った。莽は太后に申し上げて宣を免じ封国へ就かせた。莽は宣が引退を求めたことを恨み、安車と黄金を賜らなかった。
  • 八月、王崇を大司空とした。
  • 中山王の衎を召して立てた。元帝の庶孫で中山孝王の子である。これが孝平帝である。
  • 九月壬辰、皇帝を義陵に葬った。

史論(讃曰)

  • 本紀は、孝哀は藩王であったときも太子であったときも文辞に博く敏く、幼くして良い評判があり、生来声色を好まず、時に卞射や武技の余興を見た、と称している。
  • 孝成の代に禄が公室を離れ権柄が外に移ったのを見ていたので、朝に臨んでは主君の威を自ら掌握することに努め、武帝・宣帝に倣おうとした。
  • しかし董賢が政を専らにし、大臣は誅せられ傷つき、鼎の足が折れ棟が撓むような凶事があった。即位の当初から痿痺の病があり、末年にはしだいに重くなり、在位は長くなかった。乱臣がその隙に乗じた。哀しいことではないか。
  • 世の君主はこれを見れば成敗の根源を知るに足りる。后族の権を取り上げ、清く倹しく民を愛することは、後世に伝えるべき筋道である。