春 日蝕と傅太后の崩御
- 春正月辛卯、日蝕があった。天下に赦を行った。
- 丁巳、帝の皇太后である傅氏が崩じた。
三月 丞相王嘉の獄死
- 三月、丞相の王嘉が獄に下って死んだ。
- 発端は、廷尉の梁相が東平王の獄に偽りの供述があるのではと疑い、長安へ移送して改めて公卿の議に下すよう奏請したことである。尚書令の鞠譚、僕射の宗伯鳳も許してよいとした。天子は怒り、三人とも免じた。
- 王嘉が推挙して言った。梁相は獄の裁きに明るく習熟し、公平を保ち重厚である。鞠譚は文雅をかなり心得ている。宗伯鳳は経学に明るく行いを修めている。臣はひそかに朝廷のためにこの三人を惜しむ、と。天子はこれによって嘉を咎めた。
- 二十余日の後、天子は董賢に二千戸を加増した。詔にはこうあった。公卿よ、朕は即位以来病に臥して癒えず、反逆の謀が次々と絶えず、乱れをなす臣が身近に侍っている。先には東平王雲が朕の身を呪詛した、と。
- 嘉は上言した。王者は天に代わって人に爵を与えるのであるから、とりわけ慎むべきである。地を裂いて封じてそのふさわしさを得なければ、陰陽を動かして災異を招く。今、陛下の御体が長く平癒しないのは、臣が内心恐れているところである。
- 孝経に「天子に諫争する臣が七人あれば、無道であっても天下を失わない」とある。臣は謹んで詔書を封じて返上する。露わにすることは敢えてしない。臣は死を惜しんで法を尽くさぬのではない。天下がこれを知ることを恐れるので、敢えて自殺しないのである、と。
- 天子は怒り、嘉を尚書に召して責問した。梁相らは先に忠を尽くさず、外は諸侯に付いて二心を抱き、人臣の義に背いた罪に問われた。君の位は善悪を明らかにするのが職であるのに、その梁相らを推挙した。国を惑わせ上を欺くのは、近くは君から始まっている。遠い者のことをどう言うのか、と。
- 事は将軍と中朝の者に下され、みな嘉を「国を惑わせ上を欺いた不道」として弾劾した。光禄大夫の龔勝ひとりが、嘉は梁相らを推薦した罪に問われただけで罪は軽微であり、迷国罔上の不道とすべきではない、天下に示せるものではない、とした。
- ついに謁者を遣わして嘉を廷尉の詔獄へ召した。使者が到ると掾吏たちは涙を流して薬を調合し嘉に勧めた。嘉は薬の杯を取って地に叩きつけ、丞相は三公の位に列し職を奉じて国に背いたのだ、都の市で刑に伏して万民に示すべきである、どうして小児や女子のように薬を飲んで死のうか、と言った。
- 嘉はそのまま廷尉に赴いた。吏を使って嘉を辱め、君にはやはり国に背くところがあったのだろう、獄に入ったのは理由なしではあるまい、と責めさせた。
- 嘉は嘆息して天を仰ぎ、幸いにも宰相の位を占めながら、賢者を進め不肖者を退けることができなかった。これで国に背いた。死んでも責めは償いきれない、と言った。吏が賢者と不肖者の名を問うと、賢者は孔光と何武、不肖者は董賢父子だ、と答えた。
- ついに食を絶ち、血を吐いて死んだ。元始年間に忠臣を追録し、嘉の子の崇を新甫侯に封じ、嘉に忠侯と諡した。
廟の毀立をめぐる議論
- 夏、御史大夫の賈延が免ぜられた。五月乙卯、光禄大夫の孔光を御史大夫とした。
- 秋七月、孔光を丞相、何武を御史大夫とした。王嘉の推挙によるものである。
- 孔光と何武が奏上した。廟を順次毀つ順序は時を定めて決めるべきである。臣らは群臣と合議したい、と。
- そこで光禄勲の彭宣、博士・左丞ら五十三人はみな、祖宗以下は五廟を立てて順次毀つものであり、後に賢君があっても祖宗と並び立つことはできない、子孫が称えて廟を立てようとしても鬼神は受けない、孝武帝には功業があるが血縁が尽きたので毀つべきだ、とした。
- 王舜と劉歆が議して次のように述べた。
- 昔、周の宣王が北に玁狁を伐って詩がその功を頌え、斉の桓公が南に楚を伐ち北に山戎を伐って春秋がこれを称えた。漢が興って中国は平らいだが、なお四夷の患いがあり、その害は久しく、一代で積もったものではなかった。
- 孝武皇帝は中国が疲れ果てて安寧の時がないのを憐れみ、南は百越を伐って七郡の軍を起こし、北は匈奴を退けて十万の衆を降し、属国を置き、朔方を開いてその肥沃な地を奪い、東は朝鮮を伐って玄菟・楽浪を置いて匈奴の左腕を断ち、西は大宛を伐って三十六国を併せ、燉煌・酒泉・張掖を置いて匈奴の右腕を断った。
- 単于は孤立して漢の北方へ遠く逃れ、四方は無事となり、境を広げて十余郡を新設した。
- 功業が定まると丞相を富民侯に封じ、天下を大いに安んじて百姓を富ませた。その構想の規模は見て取れる。天下の賢俊を招き集め、心を合わせて謀り、制度を興し、正朔を改め服色を変え、天地の祀を立て、封禅を行い、官の称号を改め、周の後裔を存続させ、諸侯を定めて永く叛き争う心をなくした。今に至るまで代々これに頼っている。単于は藩を守り諸蛮は従い服す。万世の中興の功でこれに及ぶものはない。
- 高祖は大業を建てて太祖となり、孝文は徳が至って厚く太宗となり、孝武皇帝は功が至って著しく世宗となった。これが孝宣が徳音を発した理由である。
- 礼記の王制および春秋穀梁伝に、天子は七廟、諸侯は五廟、大夫は三廟とある。天子は七日で殯し、諸侯は五日、大夫は三日。天子は七月で葬り、諸侯は五月、大夫は三月。これが喪事における尊卑の序で、廟数と対応している。また、天子は三昭三穆と太祖の廟で七、諸侯は二昭二穆と太祖の廟で五とある。ゆえに徳の厚い者は流れが尊く、徳の薄い者は流れが卑しい。
- 左氏伝に「名位が同じでなければ礼も数を異にする。上から下へ二ずつ減らすのみ」とある。七廟とは正しい法の数で常とすべきものである。宗はこの数の中に含まれない。宗は変則だからである。功徳があれば宗はあらかじめ数を定められない。
- だから殷では太甲が太宗、大戊が中宗、武丁が高宗となった。周公は無逸の戒めで殷の三宗を挙げて成王を戒めた。これによれば宗に定まった数はない。とすれば帝王の功徳を励ます道は広い。
- 七廟の数から言えば孝武帝はまだ毀つべきではない。宗とする点から言えば功徳がないとは言えない。
- 礼記に「功が民に施されればこれを祀り、労して国を定めればこれを祀り、民の患いを救えばこれを祀る」とある。孝武皇帝はこれらをすべて兼ね備えている。これらは異姓であっても祀るのだから、まして先祖であればなおさらである。
- ある説は天子五廟というが、それを記した文はない。中宗・高宗を説く者は、その道を宗としながらその廟を毀とうとする。名と実が食い違い、賢を尊び功を貴ぶ道ではない。詩に「小さく茂った甘棠、剪るな伐るな」とある。その人を慕えばその木さえ惜しむのに、まして道を宗としながらその廟を毀つのか。
- 順次毀つ道には定まった法があり、功なく徳が特別でなければもとより血縁の遠近で決める。しかし祖宗の序列や数の多少については経伝に明文がない。至尊至重のことを、疑わしい文や根拠のない説で定めるのは難しい。
- 孝宣皇帝は公卿の議を挙げ多くの儒者の謀を用い、すでに世宗の廟として万世に建て天下に宣布した。愚臣は、孝武皇帝の功業はあのようであり、孝宣皇帝の顕彰はこのようであるから、毀つべきではないと考える、と。
- 天子は劉歆の議を優れているとして採用した。
劉歆と古文経
- これに先立ち、劉歆は光禄として重んじられていた。歆は左伝・毛詩・逸礼・古文尚書を学官に立てるよう奏請したが、諸儒はみな聞き入れなかった。歆は太常博士に書を送って責めた。
- 尚書も左氏もみな古文の旧書で、ともに秘府に蔵されていた。かつての学者は伝承が絶えた欠落を思わず、口伝を信じて書かれた記録に背いた。これは末流の師を是とし古代を非とすることである。国家の大事に及べば暗くてその由来を知らない。
- それでいて欠けたものを繕って守り、自説が破られることを恐れる私心を抱き、善に従い義に服する公心を忘れている。あるいは妬みを抱いて実情を確かめず、雷同して従い、声に従って是非を言う。哀しいことではないか。
- これら数家のことはみな先帝が親しく論じ、今上が検討されたところである。それが古文の旧書であることには明白な証拠があり、内外の記録が対応している。いい加減なものではない。
- 礼を失えばそれを在野に求めるという。古文は在野よりも勝るのではないか。過って廃するくらいなら、過って立てる方がまだよい。
- もし自説に固執して欠けたものを守り、同門と徒党を組み、道を妬んで真実に背き、明詔に反して聖意を損ない、法吏の議に落ちるようなら、二三の君子のためにそれは取らない、と。
- 諸儒はみな怨んだ。光禄大夫の龔勝は歆のこの書を理由に退官を願い出た。大司農の師丹は、歆は先帝の立てたものをそしり旧来の制度を乱していると奏上した。ついに古文経は学官に立てられなかった。
董賢の専権と禅譲の戯言
- 八月、御史大夫の何武が免ぜられ、前将軍光禄大夫の彭宣を御史大夫とした。
- 天子の外舅である大司馬の丁明が免ぜられた。丁明はかねて王嘉を重んじ、その死を憐れんだために廃されたのである。
- 董賢を大司馬衛将軍とした。二十二歳。三公でありながら給事中を兼ね尚書を統べた。
- 賢が私的に孔光を訪ねると、光は衣冠を整えて門外に出て待ち、賢の車を見るとかえって中へ引っ込んだ。賢が中門に至ると光はまた閣へ退き入った。賢が車を降りてはじめて光は出て拝して迎え、送り迎えはきわめて卑下し恭しかった。天子はこれを聞いて喜び、光の二人の子を諫議大夫・常侍に任じた。賢の権はこれによって君主に並ぶほどになった。
- 天子が酒宴を設けて賢の父子や親族と飲んだとき、天子は酔いにまかせ、くつろいで賢を顧み笑って言った。吾は堯が舜に位を譲ったのに倣おうと思うがどうか、と。
- 侍中の王閎は平阿侯の子である。諫めて言った。成王が戯れに桐の葉で弟の叔虞を晋に封じたとき、周公は進み出て祝賀し、天子に戯言はない、と言った。そもそも天下は高帝の天下であって陛下の天下ではない。陛下は藩王から入って孝成皇帝の後を嗣ぎ、宗廟を奉じて子孫に限りなく伝えるべき身である。漢の帝位と統べる大業はきわめて重い。たびたび戯言を口にされるべきではない、と。
- 天子は黙り込んで不機嫌になり、左右は皆恐れた。そこで王閎を退けて郎署に戻した。二十日して長楽宮が閎のことを深く詫びた。
- また御史大夫の彭宣が封事を上って、国を安んじ後嗣を継ぐことの危うさを述べた。天子は思い当たるところがあった。
王閎の上書
- 王閎が召されると、そこで上書して諫めた。
- 臣は聞く、王者が三公を立てるのは三光に法り、九卿を立てるのは天に法るためで、君臣の義を明らかにするには賢人を得なければならない。易に「鼎が足を折り公の御馳走をひっくり返す」とあるのは、三公がその任にふさわしくないことの喩えである。書に「頭が明らかであれば手足も良い」とある。
- 昔、孝文皇帝は鄧通を寵愛したが中大夫を超えなかった。孝武皇帝は韓嫣を寵愛したが賞賜を与えただけで、いずれも大位には就けなかった。公孫弘は布の夜具で暮らして徳を修め、抜擢されて宰相となった。巧言令色の者を君子は責めるまでもない。
- 昔、成湯は伊尹を料理場から抜き、文王は呂尚を釣りの浜から招き、武丁は傅説を土壁づくりの場から見出し、桓公は寗戚を牛の角を叩く境遇から取り立てた。いずれもそれによって覇王の功を立て、輝かしい功績を永遠に伝えた。どうして耳目を楽しませることを得意としようか。
- 今、大司馬衛将軍高安侯の董賢は、累代にわたって漢朝に功がなく、また近親の縁もなく、さらに世を正すほどの名声も高潔な行いもない。数年のうちに抜擢されて三公の一に列し、禁兵の守りを司り天文暦法を主る。
- 功もなく爵を封ぜられ、父子兄弟がむやみに抜擢を受け、賞賜は国庫を空にし、万民は騒ぎ立て路上で語り合っている。まことに天意に適っていない。
- 昔、褒の神蛇が変化して人となり、褒姒を生んで周の国を乱した。恐らくは陛下に過失の譏りが及び、董賢には小人が進退をわきまえぬ禍が及ぼう。傑出した法を立てて後世に垂れる道ではない。陛下は草刈り薪負いの言をも採り、わずかなりとも益あることを願う、と。
- 言は用いられなかったが、閎は名門の出で年若く志が強かったので、結局はこの件について不問に付された。