春正月 西王母の籌の騒動
- 春正月、関東の民が互いに騒ぎ立てて走り、あるいは籌(数え棒)を持って人から人へ渡し合い、これを「西王母の籌」と呼んだ。道中で出会う者は多いときで数千人に達した。
- 髪を振り乱し裸足の者もあり、門や関を斬り破り、垣を越えて家に押し入り、馬に乗って駆ける者、駅伝を使う者もあった。通過した郡は三十六に及び、京師まで達した。
- また集まって西王母を祀り、街路や田の畦道に祭壇を設け、博奕をし歌い舞った。
- さらに、西王母が人々に告げる、この符を身に着ける者は死なない、私の言葉が信じられぬなら戸の枢に白髪があるのを見よ、との言が伝わった。
- もと梁州刺史の杜業が中正の科で挙げられ、これについて答えた。
- 春秋の災異は象を指し示して言葉とする。籌は数を記すものである。民は陰であって水の類である。水は東へ流れるのが順であり、走って西へ向かうのは類に反して逆流する象である。度数を放縦にし、みだりに互いに背き逆らうのは、民心の反映である。
- 西王母は婦人の呼び名であり、博奕は男子の事である。それを街路や畦道で行うのは、内と外の強い者が争うことを明らかにしている。人々を集めて遊び楽しむのは陽気の応である。白髪は老衰の象である。
- 体は尊いが性は弱く、治め難く乱れやすい。門は人が出入りする所で、枢はその要である。君主が握るべき要であることは甚だ明白である。
- 今、外戚の丁氏・傅氏がきわめて盛んである。詩人が刺り春秋が譏った皇甫や三桓の例も、これを超えるものはない。示された象はこれほど明白で聖朝を覚まそうとしている。どうして応じないでいられようか。
- 志はこれについて、丁氏・傅氏の乱すところは小さく、これは王太后と王莽に対応する兆であると解した。
二月 封爵と鄭崇の獄
- 二月、帝太后の従弟の傅商を武昌侯に、太后の同母弟の子の鄭業を長信侯に封じた。
- 天子が傅商を封じようとしたとき、僕射で平陽侯の鄭崇が諫めて不可とし、詔書を手に押しとどめて受け取らなかった。太后は怒り、天子がかえって一人の臣に制せられるのか、と言った。天子はそこで詔を下して傅商を封じた。
- 鄭崇は、侍中の董賢の寵遇が度を越しているとしてたびたび諫め、それゆえ重ねて罪を得た。職務のことで責められるたびに疽や癰を発した。意見を言おうとしても罪を恐れ、退官を願おうとしてもできずにいた。
- 尚書令の趙昌はかねて崇を憎んでおり、崇が疎まれているのを見て取り、崇が外部の一族と通じており不正があるのではと奏上した。崇は獄に下されて死んだ。
史論(荀悅曰)
- 臣下が意見を言いにくいのはなぜか。理由はいくらもある。
- 言葉が口から出れば咎めと悔いが身に及ぶ。過ちを挙げ非を暴けば逆らったという禍を受け、励まし諭せば上をそしったという譏りを受ける。
- 下位の者が言って的中すれば自分より勝ったと妬まれ、外れれば愚かだと蔑まれる。人より先に見抜けばその明を奪ったと憎まれ、後から言えば追従とされる。
- 下を捨てて上に従えばへつらいとされ、上に背いて下に従えば付和雷同とされる。人々と共に言えば手柄を独り占めしたとされる。
- 言葉が浅く露わなら簡略だと軽んじられ、深く遠大なら理解されずに非難される。独りだけの見識を示せば人々は自分を覆い隠すと思い、正しくても称えられない。人々と同じなら追随とされ、当たっても功とされない。
- 事実に即して理を尽くさなければ独断とされ、謙譲して争わなければすぐ行き詰まると見られる。言い尽くさなければ隠し立てとされ、説き尽くして心情を吐露すれば身の程を知らぬとされる。
- 言って効き目がなければ怨みと責めを受け、言って事が成れば当然だと片づけられる。あるときは上に利があって下に利がなく、あるときは一方に都合よく他方に都合悪く、あるときは前に合って後に背く。
- 事に応じて理に当たり、疑いを断ち功を定め、抜きん出て独り見通し、しかも相手が聞きたいところに当たり、上下を害せず左右を妨げず、言が立ち策が成って、ついに咎めも悔いもない——そのようなことは百に一つも巡り合わない。その見識にしても万に一つも及ばない。
- しかも進言して罪を招くのは下の者にとって言い難いところであり、意向に逆らい感情に触れるのは上の者にとって聞き難いところである。言い難い臣が聞き難い主に対して、万に一つも及ばぬ時機に、百に一つも巡り合わぬ知を求める。これこそ下の実情が上に通じない理由である。
- これは君臣の間だけではなく、およそ百姓の言についても同じである。これこそ孔子が憤り嘆いて「予は何も言うまいと思う」と言った理由である。
董賢の寵遇
- 三月、光禄勲の賈延を御史大夫とした。
- 夏四月、天から血の雨が降った。山陽の湖陵で、幅三丈、長さ五丈にわたり、大きいものは銭ほど、小さいものは麻の実ほどであった。京房の易伝には、佞人が禄を得て功臣が殺されると、その妖として天が血を降らせる、とある。
- 天子は董賢を封じようとして詔を下し、孫寵と息夫躬はもと董賢を通じて東平王のことを告発したのだ、とした。そこで董賢を高安侯、孫寵を防陽侯、息夫躬を宜陽侯に封じ、右師譚に関内侯の爵を賜った。
- 董賢は字を聖卿、雲陽の人。若くして太子舎人となり、顔かたちが美しく自らそれを誇った。天子が即位すると寵愛され、外出には陪乗し、宮中では左右に侍した。十日ばかりの間に賞賜は巨万に上り、その権勢は朝廷を震わせた。
- 天子がかつて昼寝を共にしたとき、賢が天子の袖を敷いて寝ていた。天子は起きようとしたが賢はまだ眠っており、起こしたくないので袖を断ち切って起き上がった。
- また賢の妹を召して昭儀とし、賢の妻ともども朝夕左右に侍らせた。賢の父の恭に関内侯の爵を賜って衛尉とし、賢の妻の父を将作大匠とした。
- 賢のために北闕の下に大邸宅を建て、殿を重ね門を通し、土木の技巧を極めた。柱や梁には錦繡をかぶせた。賢の家の下僕に至るまで皆天子の下賜を受けた。
- 武庫の禁兵や尚方の珍宝も、上等のものはすべて賢の家にあり、天子が用いるものはその次等品にすぎなかった。ついには東園の秘器(棺)、珠を綴った衣、玉の匣まで賜り、備わらぬものはなかった。
- また将作大匠に命じて賢のために義陵の傍らに墓を築かせた。内には便房を設け、剛柏の題湊を用い、外には巡察路を数里にわたって巡らせ、門闕と網戸はきわめて壮麗であった。詔書で苑を廃してその二千余頃を賢に与えた。賢の邸宅が新築されると、理由もなく門がひとりでに壊れた。
- また天子の乳母の王阿聖も多くの下賜を受け、武庫の兵器まで与えられた。
毋丘隆の諫め
- 執金吾で東海の毋丘隆が諫めた。春秋の義に、家に甲冑を蔵さないとある。臣下の威を抑え私的な力を削ぐためである。本来の蔵を無用のことに使わず、民の力を無駄な費えに供しない。公と私を分けて正しい道を示すためである。
- 賢らは主君にへつらう弄臣であり、卑しい身から恩を受けた妾にすぎない。陛下は天下の公用をその私門に供し、国じゅうの威儀の器をその家の備えに回し、民力を弄臣に分け与え、武器で卑しい妾を守らせている。四方を正す道ではない。
- 孔子は「三家の堂に(雍の歌の)何を取るのか」と言った。臣は武庫の物を回収されるよう願う、と。天子は喜ばなかった。
鮑宣の上書
- 諫議大夫の鮑宣が上書した。今、朝廷には老練な臣がおらず、外戚の幼い子どもや董賢らを厚遇して、みな公門や省戸に置いている。陛下がこれで天地に仕え海内を安んじようとするのは甚だ難しい。
- 今、国家は空虚で用度は足りず、賊盗が各地に起こり、吏は残虐で、その害は年ごとに増している。
- 民には七つの「亡」がある。水旱の災害が一つ。官の重い賦税が二つ。貪欲な吏の収奪が三つ。豪族大姓の飽くなき蚕食が四つ。苛酷な吏の徭役で農桑の時期を失うのが五つ。集落で鼓を鳴らして駆り立て男女が列を遮られるのが六つ。賊盗の略奪が七つ。
- 七亡はまだよい。さらに七つの「死」がある。酷吏の撲殺が一つ。獄を苛酷に治めることが二つ。無実の者を冤罪に落とすことが三つ。盗賊による無差別の殺害が四つ。怨恨による殺し合いが五つ。凶年の飢饉が六つ。時候の疫病が七つ。
- 民に七つの亡があって一つの得もなく、国を富ませようと望むのはまことに難しい。民に七つの死があって一つの生もなく、刑罰を用いずに済ませようと望むのはまことに難しい。陛下がこれを安んじられなければ、民はどこへ身を寄せるのか。なぜ外戚と董賢だけを私されるのか。
- そもそも官爵は陛下の官爵ではなく天下の官爵である。陛下がふさわしからぬ官を取り、ふさわしからぬ人を官に据えながら、天が悦び民が服することを望むのは難しいではないか。
- 孫寵と息夫躬は弁舌が人々を動かすに足り、権勢は独り立ちするに足る。姦人の中の傑物である。ただちに罷免すべきである。
- 外戚の幼童でまだ経術に通じていない者は師傅につけるべきである。
- 急ぎ、もと大司馬の傅喜を召して外戚を統べさせ、もと大司空の何武、もと丞相の孔光、もと将軍の彭宣に政を任せるべきである。龔勝を司直とすれば郡国はみな推挙を慎み、三輔の輸送を扱う官も不正をなさなくなる。大任を委ねられる人々である。
- 陛下は先に小さな過ちで何武らを退け、天下は失望した。陛下は功徳のない者を容れることはきわめて多いのに、何武らを容れることはできないのか。
- 天下を治める者は天下の心を用いるべきで、独断でわが意を快くするだけでは済まない。上には皇天の譴めが現れ、下には万民の怨恨があり、次には諫争の臣がいる。陛下がご自身を薄くして悪臣を厚くしようとされても、天地がそれを許さない、と。
- 天子は鮑子都が名高い儒者であるとして寛大に遇し、深くその言を容れた。後に何武らを召して三公とし、鮑宣を司隷校尉に任じた。
鮑宣と孔光の衝突
- 後に丞相の孔光が園陵へ行くとき馳道の中を通った。鮑宣は外出中にこれに行き会い、吏に命じて止めさせ、丞相の吏を捕らえてその車馬を没収した。
- 宣は宰相を辱めた罪に問われ、事は御史に下された。御史が司隷のもとに来て宣を召し捕らえようとしたが、従事が門を閉ざして入れなかった。宣は使者を拒んだ不敬の罪で廷尉に下された。
- 博士弟子で済南の王咸らが太学の下に幟を立て、鮑司隷を救おうとする者はこの幟の下に集まれ、と呼びかけた。集まった者は千余人。宮闕に詰めかけて上書した。
- ついに宣は免ぜられ、罪に当てられたが死一等を減じられた。免ぜられると上党へ赴き、その地は牧畜に適し有力な豪族も少ないとして、そこに居を構えた。
息夫躬の献策とその末路
- 息夫躬が上言した。災異がしばしば起きている。占法では兵の兆であり、異常事態が起こるかもしれない。大将軍を派遣して辺境を巡り武備を整えさせ、一人の郡守を斬って四夷に威を示し、それによって異変を封じるべきである、と。
- 天子はもっともと思い、丞相の王嘉に諮った。嘉は答えた。民を動かすのは行いによるのであって言葉によらない。天に応ずるのは実によるのであって形式によらない。下々の細民でさえ欺けない。まして上天は神明である、欺けようか。
- 弁士は事の一端を見てみだりに考えを巡らし、干戈を動かして権謀を仕掛けようとする。天に応ずる道ではない。
- 政を議する者が苦にするのは、へつらい、腹黒さ、口先の巧みさ、苛酷さである。へつらえば主君の徳が損なわれ、腹黒ければ下が怨み、口が巧ければ正道が壊れ、苛酷なら恩恵が損なわれる。陛下は深く察せられよ、と。
- 天子は聞き入れず、ついに出兵しようとした。ちょうど董賢が息夫躬の議を阻んで不可としたので、天子は躬の官を免じ封国へ退かせた。
- 躬にはまだ邸宅がなく丘の亭に仮住まいした。よからぬ者がしばしば見張ったので、躬は恐れて、いつも亭の中に立って盗人を呪った。ある者が、躬は天子を呪詛していると告げた。
- 躬は逮捕されて獄に繋がれると、天を仰いで大声で叫び、そのまま地に倒れ、喉を詰まらせて死んだ。躬の母の聖は棄市となり、家族は合浦に流された。
四月以降の怪異
- 四月、山陽の方与で、女子の田母臺が身ごもり、出産の三月前から胎児が腹の中で泣いた。生まれると育てず、道端に捨てた。三日後、通りかかった人が泣き声を聞き、母が掘り出して引き取り育てた。
- このころ豫章の男子が女に変わり、嫁いで妻となり一子を生んだ。志はこれを、陽が変じて陰となり上が変じて下となる、一子を生むのはもう一代続いてから絶えることだ、と解した。
- 夏六月、帝太后を尊んで皇太后とした。
- 秋八月、恭皇后の園の北闕が火災に遭った。