前漢紀前漢孝哀皇帝紀上 建平元年 前6年

春 傅喜の登用

  • 春正月、石が十六個隕ちた。この月、天下に大赦した。
  • 丁酉、光禄大夫の傅喜を大司馬とした。喜は傅太后の従父の弟である。初め右将軍であったが、太后が政事に干与するのを諫めたため、右将軍の印綬を取り上げられ、光禄大夫として病を養っていた。
  • 大司空の何武と、尚書令で沛国の唐林がともに上書して喜を推した。喜は行いが潔く、忠誠をもって国を憂えている。忠臣は社稷の守りである。魯は季友によって乱が治まり、楚は子玉によって重みが定まり、魏は無忌によって敵を退け、項氏は范増によって存亡が分かれた。楚は南方に跨がり武装兵百万を擁したが隣国はそれを難物とせず、子玉が将となってはじめて晋の文公は席を横向きにして座した。その子玉が死ぬと君臣は祝い合った。多勢の者も一人の賢者に及ばない。だから秦は千金を投じて廉頗を離間し、漢は金をばらまいて亜父を疎んじさせた。喜が朝廷に立てば陛下の御光も増す。傅氏の興廃もそこにかかっている、と。
  • 天子自身も喜を重んじていたので、再び用いたのである。

天変と外戚の処分

  • 丁未、白い気が天に接し、広い所は一疋の布ほど、長さは十余丈。西南へ動き、轟々と雷のような音を立て、一刻でやんだ。
  • 定襄で牡馬が三本足の駒を生み、群れの馬に従って飲み食いした。志はこれを、馬が武を用いる象であり、後に大司馬の董賢が若年で用いられる前兆と解した。
  • 新都侯の趙欽、城陽侯の趙訢がともに罪あって免ぜられ、庶人として遼西に流された。
  • 太皇太后が詔して、外家の王氏の田で墓所でないものはすべて民に与えた。
  • 秋九月甲辰、石が虞の地に二個隕ちた。
  • 冬十月壬午、京兆尹の朱博を大司空とした。

中山の馮太后の獄

  • 中山王の馮太后と、その妹の夫にあたる宜郷侯の馮参がともに自殺した。
  • 発端は、中山王が病んだので天子が中謁者の張由に医者を率いて中山へ行かせたことにある。張由はもと狂気の病があり、発作で怒って任地を捨て長安へ帰った。尚書が無断で職を離れた事情を軽く咎めた。
  • 張由は身の危険を恐れ、中山王の太后が天子と傅太后を呪詛したと偽って訴えた。傅太后はもとから中山太后を憎んでいたので、御史を遣わして取り調べさせたが何も出てこなかった。
  • そこでさらに中謁者令の史立と丞相長史・大鴻臚丞にこの事件を直接扱わせた。史立は傅太后の意を受け、封侯にありつこうと望んで、馮太后の妹の習や、寡婦となっていた弟の妻の君之らを取り調べ、死者は十余人に及んだ。無実の者に呪詛を認める供述をさせ、呪詛・謀反・大逆無道として奏上した。
  • 馮太后を尋問したが自白はなかった。史立は「熊に立ちはだかって殿に上がったときはあれほど勇ましかったのに、今はなぜ怯えるのか」と言った。太后は「これは私を陥れて殺す気だ」と言い、薬を飲んで死んだ。
  • 馮参の一家では合わせて十七人が死に、宗族は本国へ帰された。張由は帰って関内侯の爵を賜り、史立は中大夫に昇った。
  • 太僕の馮参は兄弟四人。長兄の野王は大鴻臚で、剛直で曲がらず当代に重んじられた。次の逡、次の立もみな二千石で治績を称された。参は身なりと立ち居振る舞いを整えるのを好み、進退は恭しく見るに足るものであった。厳しく矜持を守って節操を曲げず、五侯ら寵勢の家にも屈しなかった。
  • 十二月、白い気が西南に現れ、地上から天まで届いた。参宿の下から出て天厠を貫き、幅は一疋の布ほど、長さは十余丈。十日たって消えた。