前漢紀前漢孝哀皇帝紀上 二年 前5年

春 彗星と三公の官制

  • 春正月、牽牛の宿に彗星が現れて七十余日続いた。志は、牽牛は日月と五星の運行が起こる場所で暦数の起点である、そこに彗星が加わるのは制度が改まる象だ、と解した。
  • 丁丑、大司馬の傅喜が免ぜられ、安陽侯の丁明を大司馬とした。
  • 大司空の朱博が奏上した。高皇帝は御史大夫を置き、位は丞相に次ぎ、上下が互いを監察し、選任にも順序があった。聖徳を尊び国の宰相を重んずるためである。今は司空と改められて丞相と同位となり、中二千石の者が御史大夫を経ずに丞相となるので権威が軽い。国政を重んずる道ではない、と。天子はこれに従い、司空の官を廃した。
  • 夏四月戊午、大司空の朱博を御史大夫とした。

史論(論曰)

  • 丞相は三公の官でありながらしばしば改変されるのは正しいあり方ではない。
  • そもそも丞相は秦の制度で、本来は国政の命に次ぐ卿であり、左右の丞相を置いて三公の官はなかった。
  • 詩に「朝な夕な怠らず、もって一人に仕える」とあり、一人とは天子のことである。天子より下は必ず三をもって位を成す。易は鼎の足をもって三公に喩える。政務に参与し職掌を統べ、官を立て制度を定めるには、三公こそふさわしい。

尊号の改定と州牧の廃止

  • 乙亥、丞相の孔光が免ぜられた。太后のことを議して意に逆らったためである。
  • 御史大夫の朱博を丞相、少傅の趙玄を御史大夫とした。
  • 朱博の奏上により、恭皇太后の号を尊んで帝太皇太后とし宮を宋信宮と称し、恭皇后を帝太后として永安宮と称し、京師に廟を建てた。
  • 天下に赦を行った。
  • 州牧を廃して刺史を復した。

史論(荀悅曰)

  • 州牧の制度がたびたび変わるのは正しいあり方ではない。
  • 古の諸侯の国は百里にすぎなかった。だから易に「震は百里を驚かす」とあり、諸侯の国を象っている。国が小さく人が多ければ統べやすい。
  • 古の諸侯は皆その位に長く留まり、民をわが子のように見、国をわが家のように愛した。そこで諸侯の中の賢者を立てて牧とし、成績を考課して昇降を決めさせた。牧はその政を直接統べず、その民を直接治めないので、恩恵が一手に積もることも権力が一手に併呑されることもなかった。だから牧伯の位は古の形に合わせるのがよい。
  • ただし周の制はそうではなく、大国でも五百里を超えず、公・侯・伯・子・男と順に小さくなった。
  • 今の漢は諸侯の制を廃して県として民を治める。もとは幹を強く枝を弱くし、上に一元化して権柄が下に分散しないようにするためである。
  • ところが今の州牧は万里を号して郡国を統べ、威は尊く勢いは重い。古の牧伯と名は同じでも実勢は異なる。周の末には天下の戦国が十余りあって周室は空しくなった。今の牧伯の制は戦国の轍に近く、しかも民を治める実質はない。
  • 刺史を監御史として州郡を監督させ、戻って報告させるだけでよい。

六月 讖緯による改元

  • 六月庚申、太后の丁氏が崩じ、定陶に葬った。済陰・陳留など近郡の五万人を動員して墓穴を掘らせた。
  • 待詔の夏賀良らが『天官暦』『包元太平経』十二巻を奏上し、漢の暦運は中途で衰えているので改めて天命を受け直すべきであり、改元し号を変えるべきだと説いた。
  • 『太平経』は成帝の時に斉の人の甘忠が偽作したもので、天帝が真人の赤松子を遣わして自分にこの道を教えたと称していた。当時、劉向が、忠可は鬼神にかこつけて衆を惑わすもので殺すべきだと奏上し、獄に下されて自白したが、判決の前に病死した。賀良はその書を受け継いだのである。
  • 劉歆はこれを五経に合わず施行できないとした。司隷の解光と平陵の李尋はこれを好み、天子に賀良らの議に従うよう勧めた。
  • 当時、天子は病がちであったので、天下に赦し、年号を太初元年と改め、陳聖劉太平皇帝と称し、水時計の刻みを百二十を単位とする方式に改めた。
  • 秋七月、渭城を永陵とした。
  • 賀良らはさらに政事を作り変えようとし、大臣は争ってこれを不可とした。賀良らは、大臣はみな天命を知らない、丞相と御史大夫を退け、解光と李尋を輔政に据えるべきだ、と奏上した。
  • しかし天子の病は相変わらずで、その言に効き目がなかったので、賀良らは議に下されて皆誅に伏した。解光・李尋らは死一等を減じて燉煌に流された。

李尋

  • 李尋は字を子良、平陵の人。尚書を修め災異の学を好んだ。
  • 初め待詔として意見を求められ、こう答えた。陛下は四海の民を統べておられるのに、支柱となる臣がいない。朝廷に人がなければ乱賊に侮られる。陛下は天の剛健の徳を執り、志を強く持って法度を守り、忠良の士を登用し、讒言やへつらいを聴かず、邪な臣の態度を断ち切られよ。乳母や側仕えの類の甘い言葉と悲しげな訴えは断固として聴き入れず、大義に努め、小さな情に流されるのをやめられよ、と。
  • 尋は賀良の件では判断を誤ったが、それ以前に災異を論じてしばしば的中させたので騎都尉に抜擢された。その発言には忠実で切実なものが多かった。

史論(荀悅曰)

  • 側近の寵臣や乳母・小者どもが乱をなすのは、古来の患いである。だから李尋もそれに言及した。孔子は「ただ女子と小人は養い難い」と言った。
  • そうした者は性が道に安んぜず、智は物事に行き渡らない。上に仕えるにあたっては、ただ欲するままに従い、利のみを追い、へつらいの表情を作って主君の耳目の好みに供し、その場しのぎを忠とし、迎合を智とし、小手先の技を才能とし、おもねりを美とする。
  • 左右に新しく取り入り、朝夕なれ親しみ、意向を先回りして旨に沿い、隙をうかがって君主の心を惑わし、私欲を満たそうとする。遠くを慮らず、大事を顧みない。
  • 人の情として、たるみがまったくないことはあり得ない。あるときはうっかりその非に気づかず従い、あるときは非と知りながら切り捨てるに忍びず、あるときは小事として聞き流し、あるときは心が迷って深く信じ込み、あるときは眩惑されて疑わない。
  • その事はいずれもごく微細に始まり、やがて明白なものとなる。乱は大きく広がり、その害は深く、徳を損なうこと甚だしい。
  • ゆえに賢明な主は大臣にのみ任を委ね、正直な者のみを用い、側近の寵臣やへつらい者の口利きは一切聴かない。
  • 事には損じたようで益するもの、益したようで損じるものがある。物には善くても身を置くべきでないもの、悪くても避けられないものがある。甘い甘酒に鴆毒が潜み、薬酒が病を治すこともある。
  • ゆえに君子は道をもって折り合いをつけ、心をほしいままにせず身を放縦にせず、義に従って初めて事をやめるのである。

秋 朱博らの獄

  • 秋七月甲寅、丞相の朱博、御史大夫の趙玄、孔郷侯の傅晏が罪を得た。博は自殺し、玄は死罪から二等を減じられ、晏は封邑の三分の一を削られた。
  • 経緯はこうである。傅太后が尊号を称そうとしたとき、傅晏はへつらってその意向に沿い、朱博と謀って尊号を立て、博はそれによって丞相となった。傅太后は傅喜を怨み、晏を通じて朱博にほのめかし、喜を免職させようとした。
  • 博はもとより晏と親しく、これを引き受けた。御史大夫の趙玄が止めたが、博は「すでに孔郷侯に約束した。庶民同士の約束でさえ互いに死をもって報いる。まして至尊に関わることだ。私にも死あるのみ」と言った。玄はついに同意した。
  • 奏上して傅喜を免じ、あわせて何武も免じて庶人とした。
  • 天子は博と玄が意向をほのめかされて受けたのではないかと疑い、趙玄を尚書省に召して事情を問いただした。玄は自白した。詔してその罪を議させると、議者は、春秋の義では姦をもって上に仕えるのは常刑に当たり赦されないとし、ついに罪に当てた。
  • 初め、博と玄がそろって天子の前で拝したとき、鐘のような音が響いた。殿中の郎吏で階に侍していた者は皆それを聞いた。
  • 天子が黄門侍郎の李尋に問うと、尋は答えた。洪範にいう鼓妖である。君主が聡明でなく人々に惑わされ、実のない名声の者が進むと、応がありながら形がなく、どこから来たか分からない。その伝に「その年月日の中央に当たれば正卿がこれを受ける」とある。今、四月の辰巳にこの異変があった。これが「中」に当たる。正卿とは執政の大臣のことである。丞相と御史大夫を退けて天変に応ずべきである。もし退けなくとも、一年たたぬうちに当人が自ら咎めを受けるだろう、と。

朱博の人物

  • 朱博は杜陵の人。初め冀州刺史となり県を巡行したとき、吏民が夜に道を塞いで直訴する者が数百人あった。従事は、直訴の者を全部見終えてから出発するよう請い、それで博の力量を試そうとした。
  • 博は内心それを見抜き、外に車を急がせよと告げた。博は出て車を止め、直訴の者に会い、従事にはっきりと吏民へ告げさせた。県の丞や尉のことを訴えたい者は刺史の管轄ではないから各自郡へ行け。二千石や墨綬の長吏のことを訴えたい者は、巡察から治所へ戻ったときに来い。吏に冤罪を着せられた民や、盗賊・訴訟のことを訴えたい者はそれぞれ所属の部の従事のもとへ行け、と。
  • 車を止めたまま四、五百人を裁いて送り返すさまは神のごとくで、吏民は大いに驚いた。後に博がゆっくり調べると、案の定この老獪な従事の吏が民をそそのかして集めさせたのであった。博はこの吏を殺した。以来、州郡の吏民はその威に畏れ服した。
  • 後に廷尉となったとき、自分は法文に暗いと自覚し、属官に欺かれるのを恐れて、正・監・典法の掾吏を召して言った。試しに廷尉のために、前代の判決で分かりにくいものを十余件挙げてくれ。繰り返し考えたい、と。
  • そこで一同で十件を条書きにした。博は正・監・掾吏を座らせて問い、その軽重を判定したが、十のうち八、九まで的中した。属官は博の才が人並み外れていることに感服した。
  • 博は初め亭長から身を起こした。人となりは清廉で酒色を好まず、食事に品数を重ねず、膳の上の杯は三つを超えず、夜遅く寝て早く起きたので、妻はめったに顔を見なかった。
  • しかし遊侠を好み、官途を望む士があれば推薦し、仇を報じたい者には剣を解いて帯びさせた。事に当たり士を遇するさまは流れるようであったが、大筋での正しさを欠き、ついにそれによって身を滅ぼした。

原渉

  • このころ茂陵の原渉が州里の大侠であった。
  • 初め渉の父が南陽太守として在職中に没し、郡内が千万を集めて贈った。当時の慣行では皆それを受け取ったが、渉だけは受けず、三年の喪を行った。これによって名が知られた。
  • 二十歳で難治の県を治め、谷口令となり、言葉少なに治めた。一年で官を辞し、叔父のために仇を討った。郡国の豪傑で気節ある者は皆彼を慕った。人の賢愚を問わず身を傾けて遇したので、行く先々で門前は人であふれ、村里は満ちた。
  • しかし自身の衣服も車馬もきわめて質素で、妻子は内で困窮するほどで、もっぱら貧窮を救い急難に駆けつけることを務めとした。
  • 渉はおおむね郭解に似ており、外面は温和で人に謙遜だったが、内には忍ぶものがあり、ささいな恨みのゆえに世の塵の中で死んだ者は甚だ多かった。王莽の時、渉は鎮戎大尹となった。

史論(荀悅曰)

  • 天子が国を建て、諸侯が家を立て、卿大夫以下庶人に至るまで等級の差がある。だから民は上に服し、下の者に分不相応な望みが起こらない。孔子は「天下に道あれば政は大夫の手にない」と言った。百官有司は政令を奉じて職務を修め、職を失えば誅せられ、他の官を侵せば罪となる。そうしてこそ上下が順い、万事が治まる。
  • 周室が衰えると礼楽と征伐が諸侯から出るようになり、桓公・文公の後は大夫が代々権を握り、陪臣が国命を執った。次第に衰えて戦国に至り、合従連衡して政を変え強を争った。
  • こうして列国の公子——魏の信陵君、趙の平原君、楚の春申君、斉の孟嘗君——は皆王公の勢いを借りて競って遊侠となり、鶏の鳴きまねや狗盗の類までも賓客として礼遇した。趙の相の虞卿は国を棄て君を捨てて窮した友を助け、魏斉の難を救った。信陵君無忌は割符を盗み命令を偽って将を殺し軍を私して平原君の急を救った。いずれも諸侯に重んじられ天下に名を上げた。腕をさすって遊説する者は四豪を筆頭に挙げた。
  • こうして親に背いて仲間のために死ぬ気風ができ、職を守り上を奉ずる道は廃れた。
  • 漢が興っても法網は粗く、これを正さなかった。だから代の相の陳豨は千乗の従車を連ね、呉王濞・淮南王は皆賓客を千数で招き、外戚の魏其侯・武安侯の輩は京師で競い合い、天下に交遊を求めた。劇孟・郭解の徒は巷を駆けめぐり、権勢は州郡に及び、力は公卿を屈服させた。
  • 民衆はその名声と足跡を仰いで、栄えあるものとして慕った。刑罰にかかっても身を殺して名を成すこととし、季路や仇牧のように死んで悔いなかった。
  • だから曾子は「上がその道を失い、民が離散して久しい」と言った。明王が上にあって好悪を示し礼法で整えるのでなければ、民はどうして禁を知り正しい道に返れよう。
  • 古の正しい法から見れば、五伯は三王に対する罪人であり、六国は五伯に対する罪人であり、四豪は六国に対する罪人である。まして郭解のごときは、一介の匹夫の身で生殺の権を盗んだのだから、その罪は誅しても償いきれない。
  • しかしその温良で広く人を愛し、急を救い、謙虚で功を誇らぬところを見れば、格別の資質もあった。惜しむらくは道徳に入らず、末流に身を放って身を殺し一族を滅ぼした。不運だったとは言えない。
  • 魏其侯・武安侯・淮南王の輩の一件以来、天子は歯噛みして憎み、衛青・霍去病に至って風は改まった。しかし郡国の豪傑は各地にいて、京師の親戚は冠と車蓋が連なる。これは古今の常で取り立てて言うほどのことではない。ただ王氏五侯の賓客は盛んで、婁護が師と仰がれ、諸公の間では陳遵が傑物、巷の侠では原渉ひとりが筆頭であった。

秋冬 人事

  • 九月、光禄勲の平当を御史大夫とした。
  • 十月甲寅、御史大夫の平当を丞相とし、京兆尹の王嘉を御史大夫とした。