秋 王莽の退官と怪異
- 秋七月丁巳、大司空の王莽が引退を願い出て丁氏・傅氏との衝突を避けた。黄金と四頭立ての馬車を賜って免ぜられた。
- 庚午、左将軍の師丹を大司馬とし、高郷亭侯に封じた。
- 八月庚申、鄭通里の男子の王褒が緋の衣を着て剣を帯び、北司馬門から入って殿の東門から前殿に上がり、非常室に入り込み、帳の紐を解いて剣を吊るして佩び、殿前の署長を呼んで「天帝が私にこの宮に住めと命じた」と言った。取り調べると、王褒はもと公車の大卒で、狂気の病で記憶が飛び、自分が宮に入った次第を自覚していなかった。獄に下されて死んだ。
- 九月庚申、地震があった。京師から北辺にかけて郡国三十余か所で城郭が壊れ、圧死した者は合わせて四百余人に上った。
冬 恭皇の称号と廟をめぐる議論
- 冬十月、大司空の何武が免ぜられた。癸酉、大司馬の師丹を大司空とした。
- 郎中令の裒、黄門令の殷由らが、定陶恭王太后・恭皇后はいずれも定陶という藩国の名を大いなる称号の頭に冠すべきではない、また恭皇帝のために京師に廟を建てるべきだ、と言った。天子はその議を下し、いずれも裒らの言のとおりとした。
- 師丹ひとりが異を唱えた。今、定陶恭皇后が定陶を号とするのは、母は子に従い妻は夫に従うという義によるもので、改めるべきではない。礼に「人の後を継ぐ者はその子となる」とある。陛下はすでに先帝の宗廟を承ける立場であり、義として恭皇后を奉じてその廟に入って祭ることはできない。いま京師に廟を建てて臣下に祭らせるのは、主のない祭りである。また血縁が尽きれば当然廟は毀つべきものである。一国の太祖の廟を毀たぬという礼を捨てて、主なく毀つべき不正な礼に就くのは、恭皇后を尊び厚くする道ではない、と。
- 師丹はこれによって天子の意に合わなくなった。
師丹の失脚
- たまたま上書して、古は亀甲や貝を貨幣としたが今は銭に代わり、民はそのために貧しくなった、旧来の幣を復すべきだと言う者があった。天子が師丹に諮ると、丹は改めてよいと答えた。事が有司に下されると、議する者は銭の流通は久しく改められないとした。丹は老いて自分の前言を忘れ、公卿の議に同調した。天子は、丹が前後で二様のことを言い、主張に定まったところがないとした。
- また丹が吏に上書させて事を奏させたとき、その吏がひそかに草稿を写した。丁氏・傅氏の子弟がこれを聞きつけ、人に上書させて、丹が禁中の話を漏らしたと訴えた。廷尉に下され、ついに奏上して丹を免じた。丹は上書して大司空高楽侯の印綬を返上した。
- 師丹は字を仲公、琅邪の人。廉正で道を守り、儒学によって身を立てた。失脚後は家で生涯を終えた。
- 曲陽侯の王根、成都侯の王商がともに罪を得た。王根は封国へ退き、王商は免じて庶人とされ故郷の郡へ帰された。
水害への詔
- 詔した。先に河南・潁川の郡で水があふれ、人民を浸し死なせた。光禄大夫を遣わして巡視させ、死者には棺代として一人あたり三千銭を賜う。被害を受けた県邑およびその他の郡国は今年の租賦を納めなくてよい、と。
薛宣の子の况の事件
- 博士の申咸がたびたび、高陽侯の薛宣は丞相であったとき継母が死んだのに三年の喪を行わなかった、丞相の位に居るべきではない、と言った。
- 宣の子の况は黄門侍郎であり、客の楊明を買収して申咸の顔を斬りつけ、再び登用されないようにしようとした。ちょうど司隷校尉が空席で、况は申咸がその職に就くのを恐れ、ついに楊明に宮門の外で咸を斬りつけさせ、鼻と唇を切り落とさせた。
- 事は有司に下された。御史大夫の衆らの議はこうである。况は咸が司隷となって宣を弾劾するのを恐れ、公然と楊明に宮闕に迫らせ、近臣を大通りの人混みの中で傷つけた。天子の耳目を塞ぎ、論議を担う官を抑え絶とうとしたもので、凶悪ではばかるところがない。礼に、公門では車を下り路馬には軾するとあるのは近臣を敬うためで、主君に近い者だからである。况が悪の首謀で、明が手を下して人を傷つけた。動機も行為もともに悪である。明は重刑に当て、况ともども棄市とすべきである。
- 廷尉の議はこうである。况の計画は先に定まっており、咸が司隷になるのを恐れて謀ったのではない。もとは私的な争いから起きたもので、父が謗られたためであり、他に大きな悪はない。掖門の大通りの中とはいえ、一般の民が路上で争うのと変わらない。孔子は「必ずや名を正さんか」と言った。明は人を傷つけた罪に当て、况および謀に加わった者は皆爵を削って死一等を減ずべきである、と。
- 議は先に廷尉の減刑案を採り、况は死罪から一等を減じて燉煌に流された。薛宣は免じて庶人とされ、家で没した。宣の次子の恵もまた二千石にまで至った。