前漢紀前漢孝成皇帝紀二 河平四年 前25年

  • 春正月、匈奴の単于が来朝し、白虎殿で引見された。丞相の王商は未央の廷に座していた。王商は威重があり身の丈八尺余、体は大きく容貌は人並み外れていた。単于は王商を見て拝謁したが、王商が座を立って語りかけると、単于は仰ぎ見て後ずさりし、たいそう畏れ敬った。天下に赦を行った。
  • 二月、単于は帰った。
  • 三月癸丑朔、日食があった。光禄大夫や博士の孟嘉らを遣わし、黄河沿いの被害地を巡らせ、自活できない者に賑貸し、死者を葬らせた。
  • 壬辰、長陵の臨涇で岸が崩れて水をせき止めた。

王商の失脚

  • 夏四月壬寅、丞相の王商が免ぜられた。王鳳はさきの大水の議で王商を恨んでいた。琅邪郡に災害があり、王商が太守の楊肜を調べようとしたので、王鳳は楊肜のために取りなしたが、王商は聞かず、楊肜を免じるよう奏した。しかし奏は握りつぶされて下りなかった。王鳳はこれで王商をいっそう深く恨み、人に、王商が父の侍婢と通じ、王商の妹は淫らで奴に夫を殺させ、王商がそれを教唆した疑いがある、と誣告させた。帝は取り調べまいとしたが、王鳳が強く争ったので、ついに丞相の印綬を収めた。王商は免ぜられて三日後に発病し、血を吐いて死んだ。

史論(荀恱曰)

  • 王商が水は来ないと言ったのは、智を見せるためでも王鳳を傷つけるためでもない。主に忠あり民を安んじようとしてやむを得ず言ったのに、王鳳は憤り恨んだ。馮婕妤が熊に立ちはだかったのも、勇を見せるためでも媚を求めるためでも左右に誇るためでもなく、心の痛みから主上を救おうとしたのに、傅昭儀はそこに隙を見た。いずれも死に至った。まことに痛ましい。
  • 独りの智は世に容れられず、独りの行いは時に蓄えられない。だから昔の人は自ら退いた。退いてもなお免れず、世を離れて深く隠れ、天は高くとも頭を挙げず、地は厚くとも足を投げ出さない。詩に「天は高しというが、身をかがめずにはおれぬ。地は厚しというが、抜き足せずにはおれぬ」とある。
  • もともと人の間に立つことすらできないのに、まして朝廷に立てようか。身を守っても患いを免れないのに、まして時勢を守れようか。過ちがなくとも誣枉されるのに、まして罪があればどうなるか。口を閉じていても誹謗を受けるのに、まして直言できようか。身を隠し深く潜んでも免れない。だから寗武子は愚を装い、接輿は狂を装った。窮まりきったありさまである。
  • 狂や愚を装う思慮がない者は、世に身を安んじられない。だから屈原は怨んで身を沈め、鮑焦は憤って死んだ。悲しみの極みである。死んでもなお形骸が深く隠れず魂神が遠く去らないことを恐れ、徐衍は石を負って海に入り、申屠狄は甕を抱いて河に飛び込んだ。痛みの極みである。六合の広さに、匹夫の微かな一身を容れる場所がないとは、哀れではないか。
  • だから古人は患いを畏れて免れることを図り、身を安んずる計をめぐらせ、直を撓めて曲とし、方を斲って円とし、素糸の潔さを汚し、亮直の心を退けた。羊舌職が王室から盗を受け入れ、蘧伯玉が巻いて懐に納めたのはそのためである。死をもって生に易え、亡をもって存に易えるのは、なんと難しいことか。

張禹と改元

  • 夏六月丙午、光禄大夫の張禹を丞相とした。張禹は字を子文といい河内の人。帝が太子であったころ博士として論語・孝経を授け、博士の鄭寛中は尚書を授け、いずれも関内侯の爵を賜っていた。張禹は謹厚な人柄だったが、内では財を殖やし、田を四百頃も買った。いずれも涇水・渭水で灌漑する上等の肥沃地であった。買い集めた財物もこれに見合うものだった。
  • 庚戌、楚王の囂が薨じた。
  • 山陽で石の中から火が生じた。陽朔と改元した。