春の日食と赦
- 春二月丁未晦、日食があった。
- 三月、天下に赦した。
王章の死
- 冬、京兆尹の王章が獄中で死んだ。王章は泰山の人で、節義を好み直言を憚らなかった。元帝のとき左曹中郎将であったが、石顕に排されて免ぜられた。
- 帝が即位すると、大将軍の王鳳が権を専らにし、王章を挙げて司隷校尉とした。貴戚はみな畏れ憚った。選ばれて京兆尹となった。王章は王鳳に挙げられた身でありながら、王鳳が権を専らにするのを憎み、親しみ従わなかった。そこで封事を奏して召見され、王鳳は欺いて不忠であり任に堪えないと述べた。帝は悟り、王章に「京兆尹の直言がなければ社稷の計を聞けなかった。賢を知るのは賢である。私のために自ら輔けとなる者を求めよ」と言った。王章は琅邪太守の馮野王を薦め、帝は王鳳に代えようとした。
- そのとき王鳳の弟の侍中王音がひそかに聞いて王鳳に告げた。王鳳は恐れて病と称して私邸に退き、上書して骸骨を乞うたが、その辞はきわめて哀切であった。太后はこれを聞いて涙を流し食を絶った。帝は幼いころから王鳳に親しんでいたので廃するに忍びず、王鳳はふたたび出て政務を執った。
- それ以前、王鳳は妻の妹で既に人に嫁いだことのある女を美人として後宮に入れていた。王章はこれについて、羌胡でさえ長子を殺して腹を洗い世を正すのに、王鳳は一度嫁した女を進めた、不忠不敬であると論じていた。そこで尚書が王章を弾劾して、馮野王が王の舅であるがゆえに吏に出されたのを知りながら薦めて朝廷に入れようとしたのは諸侯に阿附するもの、また帝を夷狄になぞらえたのは言うべきでないことだとし、罪は大逆に当たるとした。王章は獄中で死に、妻子は合浦に流された。
- はじめ王章が長安で学んでいたころ、病んでも掛ける物がなく、牛衣の中に臥して妻子に別れを告げて泣いた。妻は怒って「仲卿よ、京師の尊貴の中で朝廷にある者のうち、あなたを超える者があろうか。今、病み苦しんで自ら奮い立たず、かえって泣くとは何と卑しいことか」と言った。封事を上ろうとしたとき、妻は止めて「人は足るを知るべきです。牛衣の中のことを思い出さないのですか」と言ったが、王章は「女の知るところではない」と答えた。
- 王章が下獄すると妻子もみな捕らえられた。王章の十二歳の幼い娘が夜起きて号泣し、「私の父上は死んだ。獄では囚人を呼ぶのがいつも九人までなのに、今日は八人で止まった。父上はもともと剛直だから、真っ先に死んだのは必ず父上だ」と言った。果たして王章はすでに死んでいた。人々は憐れみ痛んだ。
- これより先、王尊が京兆尹であり、王章の死後は王吉の子の王駿が京兆尹となった。いずれも有能の名があったので、京兆では「前には趙・張があり、後には三王がある」と言い合った。
梅福の上書
- 九江の人、梅福が布衣の身で県道を経て変事を上書した。もと京兆尹の王章は忠直な質で反逆の罪はないのに、妻子まで処刑された。これは直士の節を折り、諫臣の舌を結ばせるものだ。君臣ともに罪でないと知りながら争えず、天下は言うことを戒めとするようになった。これこそ国家最大の患いである、と。
- 群臣が旨に順って正を執る者がないことは、どうすれば明らかになるか。民の上書のうち陛下が善しとされたものを試みに廷尉に下してみればよい。必ず「言うべきでないこと、大不敬」と言うだろう。これで占える。
- いま君命は断たれ主威は奪われ、外戚の権は日ごとに盛んである。漢が興ってから社稷が三度危うくなった。呂・霍・上官はみな母后の家である。親を親しむ道では、全うさせることこそ正しい。賢師良傅をつけて孝弟の道を教えるべきなのに、いまはその位を尊び寵し、大権を授けて驕り逆らわせ、ついには誅滅に至らせている。これこそ親を親しむ道を最も損なうものである。
- のちに梅福はまた上書した。その位にないのに政を謀るのは越職であり、位が卑しくて高いことを言うのは罪に触れる。越職して罪に触れ、危言して世の患いを言うなら、鑕に伏して身を裂かれても臣の願うところである。職を守って言わずに一生を全うすれば、死んだ日に屍が腐らぬうちに名は消える。斉の景公の位にあって千駟の馬を並べても、自分はそれを貪らない。一度、文石の階を登り丹霄の途を進み、戸牖の法坐に当たって平生の愚慮を述べたい。当時の益にならずとも後世に遺るものがあろう。これが寝ても安からず食べても味を忘れる理由である、と。
- 昔、武王は紂を伐ち、車を下りぬうちに五帝の後を存し、殷を宋に封じ、夏を杞に継がせて三統を明らかにし、独り有するのではないと示した。経に「宋、其の大夫を殺す」とあり、穀梁伝は名氏を称さないのは祖の位を存して尊ぶためだとする。これは孔子がもと殷の後だからである。正統でなくともその子孫を封じるのは、殷礼としてふさわしい。伝に「賢者の子孫は土地を有すべし」とある。まして聖人であり、また殷の後であればなおさらである。
- いま仲尼の廟は闕里を出ず、孔氏の子孫は編戸を免れない。聖人の徳をもって匹夫の祀りを享けるのは皇天の意ではない。陛下がまことに仲尼のもとよりの功に拠ってその子孫を封じられれば、国家は必ず福を得、陛下の名は天とともに窮まりない。なぜなら、聖人のもとよりの功をたどってその子孫を封じるのは前例がないからで、これを行えば後世は必ず法とする。滅びない名を得られるのに勉めずにおれようか、と。
- 梅福は自分が疎遠な身であることを自覚しつつ、王氏を鋭く譏り、前後たびたび上書したが、いずれも容れられなかった。のちに王莽が政を専らにすると、梅福はある朝、妻子を捨てて去った。九江の人はこれを仙去したと伝えたが、その後、会稽で梅福を見た者があり、姓名を変えて市門の吏となっていたという。