匈奴の伊邪莫演の亡命
- 春正月、匈奴の復秣絫単于が右賢王の伊邪莫演を遣わして貢を奉り来朝させた。正月の朝賀が終わり、使者が蒲阪まで送ったところ、伊邪莫演は「私は降りたい。受け入れられないなら自殺する。決して帰らない」と言った。
- 公卿の議者はみな先例どおり降伏を受け入れるべきだとした。光禄大夫の谷永と議郎の杜欽は次のように論じた。単于は身を屈して臣と称し、使者を遣わして朝賀し二心はない。それなのにその逃亡の臣を受け入れるのは、一人を得て一国の心を失うことであり、罪ある臣に道を開き、義を慕う君を遠ざけることになる。もし単于が即位したばかりで中国に身を委ねようとし、利害がわからず、人に偽って降らせて吉凶を占っているのなら、受け入れれば徳を損ない善を沮む。いま単于が自ら疎んじたか、使者が偽って離間を図り、隙に乗じようとしているのなら、受け入れることは相手の思う壺で、非を自分に、理を相手に帰させることになる。これは辺境の安危の源、軍旅の動静の第一であり、詳らかにせねばならない。受け入れないに越したことはない。
- 帝はこれに従い、亡命の事情を問うた。伊邪莫演は「私は狂気にかかって妄言を吐いただけだ」と答えた。送り帰すともとどおりの位に復したが、以後は漢の使者に会おうとしなかった。
災異と刑罰改革の詔
- 二月庚子、泰山の桑谷で鳶が巣を焼き、三羽の雛が焼け死んで巣とともに地に墜ちた。
- 長安の男子、石良と劉歆が同居していると、人のような姿のものが室内にいた。撃つと犬になって走り去った。その後、甲を着て弓弩を持った数人が石良の家に来たので、石良らが撃ちあい、死んだり傷ついたりしたが、いずれも犬であった。二月から六月まで続いてやんだ。
- 夏四月乙亥晦、日食があり、鉤のような形に残った。東井の六度の位置であった。光禄大夫の劉向は、四月が五月に接するのは孝惠のときと同じ、日は孝昭のときと同じ、東井は京師の分野だと述べ、その占いは継嗣を害する恐れがあるとした。天下に大赦した。
- 六月、典属国の官を廃して大鴻臚の官に併せた。
- 秋九月、太上皇の廟園を復した。
- このころ刑書が煩雑に過ぎたので、帝は詔した。周の甫刑では大辟の類が二百であったが、いま死刑にあたる条は千余ある。これで衆庶に諭そうとしても難しく、無辜の者を若死にさせるのは哀れである。死刑を減らし、除いたり簡略にできるものを議して、はっきりと分かるようにせよ。書に「刑を恤む」とある。よく審らかにし、古法に努めよ。自分も心を尽くして見る、と。しかし有司は主上の恩旨を広く宣べて法度を立てることができず、細かい末節を並べて詔書に応えるだけであった。
本志の刑法沿革論
- 昔、周の五刑の典では、墨罪五百・劓罪五百・宮罪五百・剕罪五百・殺罪五百で、平らかな国に中程度の典を用いるというものだった。穆王が甫侯に命じて五刑を作り四方を糺すに至って、墨罰の類が千、劓罰が千、剕罰が五百、宮罰が三百、大辟の罰が二百、五刑の類は合わせて三千となり、次第に煩雑になった。
- 戦国に至り、韓は申不害を用い、秦は商鞅を用いて連坐の法を起こし、三族を誅する刑を造り、肉刑を加え、大辟として額を鑿ち脅を抜き釜ゆでにする刑を設け、法禁はいよいよ酷になった。
- 高祖が秦に入って法三章を約したのは寛略と称され、網は舟を呑む魚を漏らすほどであった。それでも当時なお三族を夷す令があり、三族にあたる者はまず黥・劓・左右の指を斬られ、笞で打ち殺され、首を梟され、骨肉を市に晒された。誹謗罵詛した者はまず舌を断たれたので、これを具五刑と称した。高后元年に三族の罪を除き、孝文に至って肉刑を除いたが、右趾を斬るべき者は棄市、左足を斬るべき者は笞五百、劓罪は笞三百とされ、たいていは笞に堪えず死ぬ者が多かった。孝景が捶令を定めて、ようやく笞を受けても命を全うできるようになった。
- 孝武の時代には酷吏が裁断し、姦悪が絶えなかったので、張湯・趙禹らに法令を修定させ、見知故縦・監臨部主の法を作り、深く故意に陥れる罪をゆるめ、罪人を逃す罪を厳しくした。その後、姦猾が法を巧みに用いて互いに比べ合わせ、死罪の判例は一万三千四百七十二事に達し、文書は書架に満ちて掌る者も全部を見られなかった。そのため郡国の適用はまちまちで、同じ罪でも判決が異なり、姦吏はそこにつけ込んで取引し、助けたい者には生かす議を付け、陥れたい者には死に比した。
- 宣帝は即位してこれを深く悼み、はじめて廷尉平を置いた。元帝も即位のはじめに詔し、法令は暴を抑え弱を扶けるもので、犯しにくく避けやすくあるべきなのに、いま法律が煩雑で司る者すら分明にできず、それで無知な民を捕らえようとするのは刑の中を得たものではない、と述べて改定を議させた。孝成に至って重ねて明詔を下したが、公卿はついに定めえなかった。
- 昔、荀卿は言った。俗説に古には象刑があって肉刑はなかったというが、そうではない。古の人が罪に触れなかったというのなら、肉刑がないどころか象刑も要らない。重罪にただ軽い刑を科すなら、人を殺した者は死なず、人を傷つけた者は刑されない。罪が至って重いのに刑が軽ければ民は畏れず、これほどの乱はない。徳が位に称わず、能が官に称わず、賞が功に当たらず、刑が罪に当たらないことほど不祥なことはない。象刑惟明とは、天道に象って刑を作ることをいう。
- 荀卿の言のとおりであるとすれば、いま肉刑を除いたのはもと人を全うするためだったのに、髠鉗を一等下げた結果、かえって大辟に移り、死をもって民を捕らえることになり、本意を失った。だから死ぬ者が甚だ多い。刑が重すぎることの帰結である。他方、穴を穿つ盗み、怒りにまかせた傷害、吏の姦悪といった悪には髠鉗の罰では懲らしめが足りない。だから刑される者も甚だ多い。民が畏れず恥じもしないのは、刑が軽すぎることから生じる。死刑が重く生刑が軽すぎるので民は犯しやすい。それゆえ世の能吏は盗を殺すことを威とし、専断して殺す者が任に堪えるとされ、法を守る者は治めえないとされる。名を乱し治を傷つけることは数え切れない。だから網は密でも姦は塞がらず、刑は繁くとも民はますます侮る。刑が正しくないためである。
- その本を正し、律令を刪定し、大辟を正し、その他の罪を古に照らして順序づけ、本来生かすべきなのに死に触れる者は、募って肉刑を行わせるのがよい。人を傷つけた者、盗みをした吏、賄賂を受けて法を枉げた者は、みな古の刑に従わせ、詆り欺いて細かい法で罪を作り上げる類はすべて除くべきである。そうすれば刑は畏れるに足り、禁は避けやすく、吏は勝手に殺さず、法に二つの門はなく、軽重は当を得て民の命は全うされる。