前漢紀前漢孝成皇帝紀一 建始四年 前29年

  • 春正月癸卯、槀に石が四つ、肥累に二つ隕ちた。
  • 中書の宦官を廃止し、はじめて尚書の員を五人置いた。
  • 三月甲申、左将軍の王商を丞相とした。
  • 夏四月、雪が降った。
  • 五月、謁者丞の陳臨が殿中で司隷校尉の袁豊を殺した。
  • 秋、桃と李が実った。大雨が十余日続き、黄河が東郡の金隄で決壊し、兖・豫に流れ込んで平原・千乗・済南に至り、四郡三十三県を水没させ、官寺や民家四万か所を壊した。
  • 九月、長安城の南で鼠が木の上に巣を作り、桐と柏にとりわけ多かったが、巣の中に子はいなかった。
  • 冬十一月、御史大夫の尹忠が河の決壊に対して職を憂えなかったとして自殺した。
  • 壬戌、少府の張忠を御史大夫とした。河隄使者の王延世は、長さ四丈・太さ九囲の竹の籠に石を詰め、二艘の舟に挟んで運び下ろすことを二十六日続けて堤を完成させた。帝はその功をたたえ、光禄大夫に任じ、関内侯の爵と黄金百斤を賜った。

王尊

  • この年、京輔都尉の王尊が京兆尹を領した。王尊は字を子贛といい涿郡の人で、果断勇敢な人柄であった。
  • はじめ護羌校尉となって軍糧を送ったとき、羌が反いて糧道を絶ち、数万の羌兵に囲まれたが、千余騎で突破して免れた。
  • のち益州刺史となった。それ以前、琅邪の王陽が益州刺史であったとき、管内を巡って邛𤏡の九折阪に至り、「先人から受けた体をもって、どうしてこのような険を何度も越えられようか」と嘆き、のち病と称して去った。王尊が巡行して阪の上に至ると吏に「これが王陽の恐れた阪か」と問い、御者を叱って車を駆けさせ、「王陽は孝子、王尊は忠臣である」と言った。二年在任し、境外の蛮夷はみな帰順した。しかし事件に連座して免官となった。
  • そのころ南山の群賊数百人が吏民の害となっていた。校尉が射士千余人を率いて追捕したが一年余りでも捕らえられなかった。そこで王尊を京輔都尉として京兆尹の事を領させたところ、ひと月ほどで盗賊は鎮まった。
  • ついで王尊を東郡太守とした。黄河の水があふれたとき、王尊は白馬を殺して水神を祀り、みずから圭璧を執り、巫に祝らせ、夕方には堤の上に泊まった。吏民数千人が叩頭して退去を求めたが、王尊は堤上に泊まり続けて去らなかった。水が高まって堤が壊れると吏民はみな逃げ、主簿だけが泣いて王尊のそばに残った。王尊が立って動かずにいると、波は次第に退いていった。帝はその勇と節を嘉し、王尊の秩を中二千石とし、黄金二十斤を賜った。