前漢紀前漢孝元皇帝紀中 永光四年 前40年

災異と詔

  • 春二月、天下に赦した。貧民に貸し与えたものは返済を取り立てないこととした。
  • 三月、雍に行幸し五畤を祠った。
  • 六月甲戌、孝宣帝の園の東闕に火災があった。戊寅の晦、日食があった。
  • 詔。明王が上にあり忠臣が職を布けば群生は和楽し方外まで恩沢を蒙ると聞く。今、朕は王道に暗く、朝な夕なに憂え懼れながらその理に通ぜず、瞻れば眩まぬことなく、聴けば惑わぬことがない。ゆえに教令はしばしば民心に背き、邪説が虚しく進み、事に成功がない。これは天下の知るところである。公卿大夫は好悪が同じでなく、あるいは姦に縁って邪をなし細民を侵し削る。元元はどこに命を託せばよいのか。詩に「今この下民、また甚だ哀し」とあるではないか。今より以後、公卿大夫は天の戒めを思い、身を慎み行いを修めて朕の足らぬところを輔け、直言して意を尽くし、憚るところがあってはならぬ、と。

郡国の廟の廃止

  • 秋七月、衛思后の園と戻后の園を廃した。
  • 冬十月乙丑、郡国にある祖廟を廃した。
  • 先に貢禹が「古の天子は七廟である。今、孝景までは親が尽きているので毀つべきである。郡国の廟は古礼に依らないので止めるべきである」と奏したが、実行されぬうちに禹は卒した。そこで禹の言を追想して詔し、議させた。
  • 丞相の玄成、御史大夫の弘ら十七人はみな言った。祭りはみな中から出て心に生ずるものである。聖人のみが帝を饗し、孝子のみが親を饗することができる。廟を京師に立てて自ら承け仕え、四海の内はそれぞれの職をもって来り祭る。尊を尊ぶ大義であり、五帝三王の易わらぬ道である。詩に「来ること雍雍、至り止まること粛粛」とある。春秋の義では、父は支庶の宅で祭られず、君は臣僕の家で祭られず、王は下土の諸侯のところで祭られない。愚考するに、郡国にある宗廟は一切修めぬべきである、と。奏は許された。
  • そこで昭霊后・武哀王・昭哀后・衛思后・戻太子・戻后の園を廃し、みな祀りを奉ぜず、夷守を置くにとどめた。諸陵は三輔に分属させ、渭城の亭部の北原の上を初陵とした。
  • 詔。往時は臣子の義によって郡国の民を徙して園陵に奉ぜよと奏された。今、百姓は遠く先祖の墳墓を棄て、業を破り産を失い、親戚は離散し、人は思慕の心を懐き、家には自ら安んぜぬ思いがある。ゆえに東の辺は虚耗の災を被り、関中には拠り所なき民がいる。長久の策ではない。詩に「民もまた労れている、少し安んじさせよ。この中国を恵み、もって四方を綏んずる」とあるではないか。初陵には県邑を置かず、天下が土地に安んじ生業を楽しみ、揺れ動く心のないようにせよ、と。あわせて先后の父母の奉邑も廃した。