大赦と匡衡の上疏
- 春二月、天下に大赦した。民に爵一級、女子には百戸ごとに牛酒、鰥寡孤独・高齢者・孝弟力田に帛を賜った。
- 丁酉、御史大夫の韋玄成を丞相とし、左扶風の鄭弘を御史大夫とした。弘は赴任地ごとに名を知られ、その法度や条教は後世に称えられた。
- 三月壬戌朔、日食があった。
- 六月の詔。元元の民は饑饉に苦しんでいる。朕は民の父母でありながら徳が覆いきれず、その上に刑を加えている。甚だ自ら傷む。天下に赦す、と。
- 当時、災異がしばしば起こったので、皇帝は政の得失を言う者に諮った。博士の匡衡が上疏した。
- 朝廷は天下の柱である。公卿大夫が相ともに礼を修めて恭しく譲れば民は争わず、仁を好み施しを楽しめば民は暴れず、義を上とし節を高くすれば民は行いを興し、寛やかで柔らかく和順であれば衆は互いに愛する。この四つこそ明王が厳しくせずして治める所以である。
- 朝廷に色を変えて言い争うことがあれば下には争闘の患があり、上に専断の士があれば下に譲らぬ人があり、上に勝ちを求める補佐があれば下に傷害の心があり、上に利を好む臣があれば下に盗む民がある。すべては本にある。
- 詩に「京邑は翼翼たり、四方これに則る」とある。今、長安は天子の都であり、親しく聖なる教化を承けているのに、その習俗は遠方の郡国と変わらない。来る者は手本とすべきものがなく、かえって侈靡を見て真似る。本朝から正して、海内が明らかに見聞きを改め、道徳が京師に興り、よき評判が国境の外まで揚がるようにすべきである。そうしてこそ大いなる教えが成る。
- 伝に「好悪を審らかにし性情を治めれば王道は興る」という。性情を治める道は、必ず己の足らぬところを強め、己の余るところを見定めることである。聡明で疎通した者は詮索しすぎるのを戒め、寡聞少見の者は覆い塞がれるのを戒め、勇猛剛強の者は暴を戒め、仁愛温良の者は決断せぬのを戒め、沈静安舒の者は時に遅れるのを戒め、心の広大な者は忘れやすいのを戒める。己の戒むべきところを見定めて義でこれを整えれば、中和の教化が応じ、偽り巧む徒は徒党を組んで妄りに進むことができなくなる。
- 今の俗吏は治めるのに礼譲を奉ぜず苛烈を尚び、財を貪り勢いを慕う。ゆえに法を犯す者は多く姦邪は止まない。陛下は吏民が法に触れるのを哀れんで年ごとに大赦しておられるが、今日赦令が出れば明日また犯し、次々に獄に入る。その根源を改めなければ、毎年赦しても刑は息まない、と。当時は赦令がしばしば出ていたので、衡の対策はそこに及んだのである。
史論(荀恱曰)
- 大赦は一時の便宜であって常典ではない。漢が興ったのは秦の兵革の後で、愚かさの極まった世であり、家並みに刑すべき有様であった。ゆえに三章の法を設け大赦の令を出し、汚れを洗い流して民とともに新たに始めた。時勢がそうさせたのである。後世は業を承けてそれを襲い改めず、時宜を失った。
- 恵帝・文帝の世のようであれば赦すべきものはない。孝景の時に七国がみな乱れ異心が並び起こって姦邪が一つでなかった場合、武帝の末に賦役が繁く興り群賊が並び起こり、加えて太子の事、巫蠱の禍で天下が紛然として百姓が拠り所を失い人が自ら安んじなかった場合、光武の際の乱を撥めた後のような場合、こうしたときにこそ赦すべきである。
- 君臣が礼を失い政教が衰え、法を犯す者が多く、亡命して流れ隠れ捕らえられぬ者が前後に積もって山野に満ち、勢いが窮まり刑が迫って群盗となろうとしているとき、あるいは刑政が中庸を失い猛暴が横行して怨みと冤罪が多く、天下が憂え惨み、獄が乱れて治めがたいとき、その後は赦すべきである。大逆を赦すこともあり、軽罪を赦すこともあり、一方を赦すこともあり、天下を赦すこともある。変に応じ時を救うことを期するのである。
馮奉世の西羌討伐
- 秋七月、西羌が反した。右将軍の馮奉世を遣わして撃たせた。奉世は字を子明、上党の人で杜陵に移った。はじめ前将軍の韓増が推挙し、宣帝の時から名臣であった。
- 出兵を議したとき、奉世は言った。虜は三万人を超えまい。兵法では倍の六万を用いるべきだが、羌の衆は弓と矛の兵にすぎず武器は鋭くない。四万人で守り屯すれば足りる、と。さらに言った。国家の戦守の備えは久しく廃れ、夷狄はみな辺境を軽んずる心を持っている。今、一万人を数箇所に分屯させれば、虜は兵の少ないのを見て必ず畏れない。戦えば兵は挫け、守れば足りない。このように怯弱の形が現れれば羌人は利に乗じ、諸種が並び集まる。臣は中国の役が四万人では止まらぬのを恐れる。ゆえに少なく発して日を空しくするのと、一挙に速やかに決するのとでは、功に万倍の差がある、と。強く争ったが容れられず、詔で二千人を加えられただけだった。
- そこで奉世は騎一万二千を率い、二人の裨将とともに隴西に至って兵を数箇所に分け、また別に校尉を遣わして広陽・上谷の民を救わせた。羌虜は衆が多く、漢兵は羌に敗れて二人の校尉が殺された。奉世は地形と部衆の多寡の計算を具に上申し、三万六千を加えて初めて足りると願った。皇帝は大いに兵六万人を発し、太常の任千秋を奮威将軍に拝して助けさせた。奉世は自分の衆で足り大将を煩わせるには及ばぬと上書したが、皇帝は聴かず、ともに進兵した。羌虜は大いに破れ、斬首は数千級、残りはみな塞外へ走り出た。
鶏の変と王氏の兆し
- 八月、天から莎のような草が降り、絡まり合って弾丸のようであった。
- この年、雄鶏が角を生じたのを献ずる者があった。本志はこう解する。黄龍元年・初元・永光と鶏の変が三度現れたのは、王氏が位を僭する萌しである。黄龍元年に宣帝が崩じ今上が即位し、皇后が立とうとしていた。それが正宮の中で雌鶏が雄となり、鳴かず、率いず、蹴爪もないという、貴が萌したがまだ成らぬ形に応じた。初元元年に王婕妤の父を平陽侯に封じ、婕妤が皇后に立ったのがそれに応ずる。丞相府の史の家の雌鶏が雄になったのは、丞相の内に女があることの応である。雛を伏せたのはすでに子があることを明かし、蹴爪を備えようとしたのは尊がすでに成ったことを示す。永光二年に禁が薨じ、子の奉が侯を嗣ぎ、侍中・衛尉となって初めて用いられた。雄鶏が角を生じたのは、威を布き権を行うことがここから始まるのを明かす。ついに簒奪に至る兆しであった。