宣帝の葬送と王皇后の家
- 春正月辛丑、孝宣皇帝を杜陵に葬り、天下に赦した。諸侯王・公・列侯には金、二千石以下には銭帛を差をつけて賜った。
- 皇后の兄で侍中・中郎将の王舜を安平侯に封じた。丙午、皇后に王氏を立て、皇后の父の王禁を陽平侯に封じた。
- 禁は魏郡元城の人である。その先祖は斉の田氏で、済北王安の後裔にあたる。子孫は庶人に落ちたので、当時の人は「王家の田氏」と呼んだ。
- 禁の父は字を翁孺という。武帝の時に繡衣御史となって群盗を追捕したが、その党与や長吏を多く見逃して生かした。同じ任にあった暴勝之は二千石以下を奏上して殺し、盗と行き来し酒食をともにして連坐する者まで含め、大郡では一万余人を斬った。翁孺は使者としての職務にかなわぬとして免ぜられた。翁孺は「千人を生かした者は子孫が封を得ると聞く。自分は一万余人を生かした。後世は興るだろう」と嘆じた。
- 翁孺は魏郡元城に移り住んだ。元城の人である建公が言った。昔、春秋の時に沙麓が崩れ、晋の史官が卜して「陰が陽に対して雄となり、土と火が相乗ずる。沙麓が崩れて六百四十五年後、聖なる女が興るはずだ。斉の田氏からであろうか」と言った。元城の東郭にある五鹿墟がその沙麓の地である。今、翁孺が移ってきたのはまさにその地で、年月もぴたりと当たっている、と。
- 皇后は字を政君という。母が身ごもったとき、月が懐に入る夢を見た。成長して許嫁ができても、嫁ぐ前に相手が死ぬということが重なり、禁は怪しんだが、人相見は必ず大貴になると言った。十八歳のとき宣帝の代に掖庭に入って家人子となり、太子に配された。一度殿内で召されただけで身ごもり男子を生んだ。これが成帝である。
王吉と貢禹
- 使者を遣わして琅邪の王吉と貢禹を徴した。吉は年老いており道中で病没した。禹は到着して諫議大夫に任じられた。
- 王吉と貢禹は親しく、世に「王陽が位に在れば貢公は冠の埃を払う」と言われた。進退の判断を同じくするからである。
- はじめ吉が長安の東側に住んでいたころ、隣家の棗の枝が吉の庭に垂れていた。吉の妻がその棗を取って吉に食べさせた。吉は後に知って妻を去らせた。隣家は吉が妻を去らせたと聞いて木を切ろうとしたが、近所の者が止め、強く請うて吉の妻を戻させた。里中では「東の家に樹があり王陽は妻を去らせた、東の家の樹は無事で去った妻もまた還った」と言い合った。節を励むこと、このようであった。
- 貢禹は字を少翁。はじめ河南令となったが、職務のことで府の官に責められ、冠を脱いで謝した際に「冠が一度脱げたら、また被れるものか」と言って官を去り、経に明るく行いを潔くして自らを修めた。
貢禹の建言
- 皇帝は禹に会うと、心を虚しくして政事を問うた。
- 古には宮室に制度があり、宮女は九人を超えず、飼う馬は八匹を超えず、壁は塗るだけで彫らず、木は磨くだけで刻まず、車服・器物には文様を描かず、苑囿は数十里を超えず民と共有した。高祖・孝文・孝景は古の節倹に倣い、宮女は十余人、厩馬は百余匹にすぎなかった。後世は奢侈に転じ、臣下もそれに倣った。ゆえに大夫は諸侯を僭し、諸侯は天子を僭し、天子は天の道を超えた。
- 今、斉の三服官は工人数千人を使い一年の費えは数千万、杯や碗の器物まで文様を描き金銀で飾る。厩馬は数万匹。民は飢えて死に、人が人を食うこともあるのに、厩馬は粟を食べ、太りすぎるのを心配して毎日歩かせている。王者は天から命を受けて民の父母となる者だ、まことにこれでよいのか。
- 武帝はまた美女を数千人まで集めて後宮を埋めた。崩じたのち昭帝は幼弱で、霍光は礼の正しさを知らず、金銀財物や鳥獣六畜の類を凡そ百九十物も多く納め、また後宮の女を園陵に置いた。大いに礼を失い天心に逆らったのに、後世はこれに従い、天下を教化して百姓に至るまで制度を越えさせた。
- 陛下は輿服や御用の品を三分の二減じ、後宮の賢女を見定めて二十余人を残し、他はみな帰し、諸園陵の子のない女もみな遣り、厩馬は数十匹を超えぬようにし、長安城南の苑だけを狩猟の囿として残し、他はすべて田に戻して貧民に賜うべきである。天が聖人を生むのは万民のためであって、自ら娯しむためだけではない。これは聖心をもって天地に参し往古に照らして決めるべきことで、臣下と議すべきことではない。もし意に阿り旨に順って君に付き随うだけならば、臣禹は切なる思いに堪えず、愚を尽くさぬわけにいかないのだ。
- 皇帝は喜んでその忠を容れ、三輔・太常・郡国の公田および苑のうち省けるものを貧民の賑給に充てるよう詔した。禹の言はその後多く実行された。
賑恤と災異
- 夏四月、光禄大夫の王褒ら七人が天下を巡行し、耆老・鰥寡孤独・職を失った民を慰問し、賢俊を登用し、身分の低い者からも人を挙げ、風俗の教化のさまを観た。
- 詔。災害の甚だしい国は今年の租賦を免ずる。江淮の陂湖・園池は貧民に貸し与えて租税を取らない。宗室で属籍にある者に馬一匹から二駟までを、孝弟力田・鰥寡孤独に帛を、吏民には五十戸ごとに牛酒を賜う、と。
- 秋八月、属国の降胡一万余人が逃亡して匈奴に入った。
- 九月、関東の諸郡国十一で大水があり、人が飢えて食い合った。詔して、めったに行幸しない宮館は修繕せず、穀を食む馬の飼料を減らし、獣には肉を与えることとした。列侯に茂才を挙げさせた。
- 匈奴の呼韓邪単于が民衆の困乏を上書したので、詔して雲中・五原郡から穀二万斛を転送して給した。