前漢紀前漢孝宣皇帝紀四 黄龍元年 前49年

  • 春正月、甘泉に行幸し泰畤で郊祀した。匈奴の呼韓邪単于が来朝し、礼と賜与は初めのときと同じであった。二月、単于は帰国した。
  • 詔。朕は不明ながら、しばしば公卿大夫に詔して民の苦しむところに従わせてきた。ところが今の吏は、姦邪を禁じないのを寛大とし、有罪を放免するのを苛酷でないとし、あるいは酷薄なのを賢とする。いずれも中庸を失っている。詔を奉じて教化を宣べるのにこのようでは誤りではないか。今、天下に事は少なく賦役も減り兵革も動いていないのに、民に貧しい者が多く盗賊が止まないのは、咎はどこにあるのか。上申する計簿はごまかしに努めて考課を逃れ、三公はそれを気にもかけない。朕は誰に任せればよいのか。御史は計簿の疑わしく不実なものを取り調べ、真偽が入り混じらぬようにせよ、と。
  • 三月、彗星が王良・閣道に現れ、紫微宮に入った。
  • この年、未央宮殿の輅軨、および宮中の雌の雉が雄に化し、羽毛が変わったが鳴かず、蹴爪もなかった。
  • 冬十二月甲戌、皇帝が未央宮で崩じた。

史論(讃曰)

  • 本紀は孝宣の治を称している。信賞必罰、名と実とを照合し、政事・文学・法治の士はみなその能力を精しくし、技巧や器械の資に至っては後世でこれに及ぶものは少ない。吏はその職にふさわしく民はその生業に安んじたことが知られる。匈奴の内乱に遭遇して、亡びゆく者は推し、存する者は固め、威を北狄に伸ばし、単于は義を慕って稽首し藩と称した。功は祖宗を輝かせ、業は後嗣に伝えられた。中興と呼ぶべく、その徳は殷の高宗、周の宣王に等しい。
  • 漢の武帝の世は賢者を得ることが盛んであった。公孫弘・倪寛は大鳥の翼をもちながら燕雀の中で困しみ、卜式は羊飼いの間から身を起こした。時に遇わずしてこの位に至れようか。孝武が即位して文武を用い、賢を求めること追いつかぬかのようで、蒲輪の車で枚生を迎え、主父偃に会って歎息した。群士は義を慕い、異能の人が並び出た。卜式は牧畜で試され、桑弘羊は商人から抜擢され、衛青は奴僕から奮い立ち、金日磾は降虜から出た。これらもまた当時の版築や牛飼いの徒である。漢の人材はここに極まった。
  • 儒雅では公孫弘・董仲舒・倪寛、篤行では石建・石慶、質直では汲黯・卜式、賢を推すことでは韓安国・鄭当時、律令を定めるでは趙禹・張湯、文章では司馬相如、滑稽では東方朔・枚皐、応対では厳助・朱買臣、暦数では唐都・洛下閎、律の調整では李延年、計略では桑弘羊、使者としては張騫・蘇武、将帥では衛青・霍去病、遺詔を受けるでは霍光・金日磾。その他は数え切れない。ゆえに功業・制度・遺文を興し造ることは後世の及ばぬところとなった。
  • 孝宣に至って統を承け大業を継ぎ修め、また六芸を講論して優れた人材を招き選んだ。蕭望之・梁丘賀・夏侯勝・韋玄成・厳彭祖・尹更始は儒術で進み、劉向・王褒は文章で顕れ、将相では張安世・趙充国・魏相・邴吉・于定国・杜延年、民を治めるでは黄覇・王成・龔遂・邵信臣・韓延寿・尹翁帰・趙広漢・張敞の類がおり、みな功績が後世に伝わった。その名臣を並べてみれば、武帝の世に次ぐものである。