呼韓邪単于の来朝と儀礼の議
- 春正月、甘泉宮に行幸し泰畤で郊祀した。
- 匈奴の呼韓邪単于が郅支に破られ、ついに臣と称して来朝した。皇帝はその儀礼を議させた。
- 丞相の黄覇、御史大夫の于定国の議。聖主は諸夏を先にし夷狄を後にするものだから、礼儀は諸侯王に準じ、位次はその下に置くべきだ。
- 太子太傅の蕭望之の議。単于は夷狄であり、その礼儀は正朔の及ぶところではないから敵国と称する。臣としない礼で待遇し、位は諸侯王の上に置くべきだ。蛮夷が稽首して藩と称するのに中国が譲って臣としないのは羈縻の義であり謙厚の礼である。書に「戎狄は荒服」といい、その往来が定まらぬことをいう。もし匈奴の後嗣が朝饗を欠くことがあっても叛臣とはならず、信と譲とが蛮夷に行われ、福祚は無窮に延びる。これこそ万世の長策である、と。
- 皇帝は単于を諸侯王の上に置き、賛謁の際には藩臣と称して名は称えさせず、璽綬・冠帯・衣裳・安車駟馬・黄金・錦繍・繒絮を賜い、有司に単于を導かせて先に行かせ邸に落ち着かせた。
史論(荀恱曰)
- 春秋の義では王者に外はなく、天下を一つにしようとする。書に「西戎即ち序す」というのは、みなその序に順い従うということである。
- 道理が遠く隔たり、人も物も断絶し、人事の及ばぬところ、血気の潤わぬところには文辞で告げ諭さない。ゆえに正朔が及ばず礼義が加わらぬのだが、それは導かぬのではなく、勢いがそうさせるのである。
- 王者は必ず天地に則る。天は覆わぬものなく地は載せぬものがない。盛徳の主もまた同じである。九州の外を藩国といい、蛮夷の君は五服に列する。詩に「彼の氐羌を見よ、敢えて来王せざるはなし」とある。ゆえに要服・荒服の地も必ず王への貢を奉る。職を果たさぬなら辞譲を加え号令を加える。敵国と呼ぶのではない。
- ゆえに遠い者が親しい者を隔てず、狄が華を乱さず、軽重に序があり賞罰に章がある。これが先王の大礼である。四夷の楽を四門の外で舞わせるのは、その礼を備えぬからで、先祖の廟には見せず、その志意と音声を献ずるだけである。
- 望之が臣とせぬ礼で待遇し、王公の上に置こうとしたのは、分を越え序を失い天の常道を乱すもので、礼ではない。ただし一時の便宜という立場ならば議論は別になる。
単于の帰還と祥瑞
- 二月、単于は帰った。衛将軍・車騎将軍・騎都尉と騎一万六千を遣わして送らせた。単于は幕南に帰って光禄城を保ち、郅支単于は遠く遁れ去って、匈奴はついに定まった。
- 詔。さきごろ鳳凰が新蔡に集まり、多くの鳥が四面に列をなして立つこと万を数えた。よって汝南太守に帛百疋、新蔡の長吏・三老・孝弟力田・鰥寡孤独に帛を差をつけて賜い、吏民に爵二級を賜い、今年の租を免ずる、と。
于定国とその父
- 三月己巳、丞相の黄覇が薨じた。五月甲午、御史大夫の于定国を丞相とした。
- 定国の父の于公は東海郡郯県の獄吏、のち郡の決曹掾となった。裁判が明晰で、法を裁かれた者も恨みを残さなかった。郡中は彼のために生祠を立てた。
- 東海に孝婦がいた。若くして寡となり子もなく、老いた姑を大切に養った。姑は再嫁させようとしたが孝婦は去ろうとしない。姑は隣人に「私は年老いて長く若い者の負担になっている」と言い、のち自ら首を刎ねて死んだ。姑の娘が「嫁が母を殺した」と訴え、吏の取り調べが厳しく、孝婦は自ら偽って服罪し、獄が成って府に上申された。
- 于公は、この婦は十余年も姑を孝養して天下に孝で聞こえた者だ、必ず殺してなどいないと主張した。太守が聞き入れず、于公は争っても通らないので、成った獄書を抱いて府門で哭し、そのまま病と称して去った。
- 郡中は三年にわたって旱魃に苦しんだ。のちの太守が于公を召したとき、于公は「先の孝婦は死ぬべきでなかった。枉げて誅したことが、災いの原因はそこにあるのではないか」と言った。そこで太守は牛を殺して自ら孝婦を祭り、その墓を表彰した。すると大雨が降った。
- 于公の里の門閭が壊れ、父老たちが直そうとしたとき、于公は「少し高く大きくして、駟馬の高蓋の車が通れるようにせよ。私は獄を治めて陰徳が多い。子孫は必ず興るだろう」と言った。ゆえに人は「于公は高門を建てて封を待ち、厳母は地を掃いて喪を望む」と言った。
- 定国は若いころ文法の吏であったが、卿の位に上ってから師を迎えて春秋を学び、自ら経を執って北面し弟子の礼をとった。謙譲恭敬で、士であれば貧賎で徒歩の者にも等しい礼で接した。廷尉となること八年、法の適用は公平端正で、朝廷は「張釈之が廷尉であったとき天下に冤罪の民はなく、于定国が廷尉であって天下は自ら冤むことがない」と称えた。酒を好んで一石に及んでも乱れず、かえって精明であった。
陳万年父子と石渠閣の議
- 邴吉が薨じたとき、杜延年・于定国・陳万年を推薦し、いずれも順次登用された。のち太僕の陳万年が御史大夫となった。
- 万年は沛の人で、表向きの行いは廉平、私生活も修まり、在位して職に称ったが、人に取り入るのが巧みであった。邴吉が病んだとき、中二千石以下が見舞いに来ても吉が家丞を遣わして辞退させると皆帰ったが、万年ひとりが留まって夜更けに帰った。このように意を曲げるのを好んだ。
- 子の陳咸は剛直で異才があった。万年がかつて咸を寝台の下に召して教え戒めたところ、咸は居眠りして頭を屏風にぶつけた。万年が怒ると、咸は叩頭して「お許しください。おっしゃることは要するに、私に諂いを教えるものです」と謝した。万年はそれきり言わなくなった。
- 咸は御史中丞となって殿中で法を執り、公卿以下みな敬い憚った。石顕の是非をかなり口にしたため顕に奏され、省中の語を漏洩したかどで一件の獄によって死を減ぜられた。のち州郡を歴任し、行くところ令が行われ禁が守られ、官は少府に至った。その治は厳酷で厳延年に倣ったが、性は奢侈で廉潔さは及ばなかった。
- 詔して諸儒・博士に五経の異同を石渠閣で講じさせ、太子太傅の蕭望之がその議を裁定し、皇帝が自ら制を称して裁決した。こうして梁丘の易、大夏侯・小夏侯の尚書、穀梁・公羊の春秋、春秋左氏伝の博士を立てた。
- 冬、烏孫公主が帰国を求めた。年は七十余であった。烏孫の男女二人とともに来た。田宅と奴婢を賜い、朝見の儀は公主に準じた。