前漢紀前漢孝宣皇帝紀四 甘露二年 前52年

封建と大赦

  • 春正月、皇子の囂を定陶王に立て、のちに楚王に徙した。
  • 詔。さきごろ鳳凰が現れ甘露が降り集まり、黄竜が登り興り、醴泉があふれ流れ、枯れた草木が栄え茂り、神光がともに現れ、ことごとく吉祥を受けた。よって天下に赦し、民の算賦を三十減じ、諸侯王・丞相・将軍・二千石には金銭を差をつけて賜い、民に爵、女子には百戸ごとに牛酒、鰥寡孤独と高齢者に帛を賜う、と。
  • 朱崖郡が乱れた。夏四月、護軍都尉の張禄を遣わし兵を率いて撃たせた。
  • 御史大夫の杜延年に安車駟馬を賜って免じた。五月己丑、廷尉の于定国を御史大夫とした。
  • 秋九月、皇子の宇を東平王に立てた。
  • 冬十月、雲陽宮に行幸した。

趙充国の薨去と麒麟閣の画像

  • 営平侯の趙充国が薨じ、謚を壮武侯とした。その功徳が霍光らと並ぶとして、未央宮に順を追って画像が描かれた。
  • 第一は大司馬大将軍博陸侯の霍光。次に衛将軍富平侯の張安世、車騎将軍龍額侯の韓増、後将軍営平侯の趙充国、丞相高平侯の魏相、丞相博陵侯の邴吉、御史大夫建平侯の杜延年、宗正楊徳侯の劉徳、少傅の梁丘賀、太子太傅の蕭望之、典属国の蘇武。いずれも功徳があって当代に名を知られ、中興の輔佐たることを明示するもので、周の方叔・邵虎・仲山甫に列するものであった。
  • 成帝の時、西羌にしばしば警報があり、成帝は将帥の臣を思って黄門侍郎の楊雄に詔し、充国の画像に頌を作らせた。その趣旨。明らかな霊は先にあり、戎には先零がいた。先零は猖狂して我が西の疆を侵した。漢は虎の臣に命じた、それが後将軍である。我が六師を整え、これを討ちこれを震わせた。すでにその地に臨み、威と徳とをもって諭した。守るばかりで功を誇る者はこれを勝てぬと言ったが、充国はその軍を罕の羌に向けようと請うた。天子は我に命じてこれに従わせた。鮮陽・営平は節を守り、しばしば封章を奏し、敵を計り勝を制し、その威と謀は並ぶものがなかった。ついに西戎に勝ち、師を京に還した。鬼方は服従し、朝廷に来ぬ者はなかった。昔、周の宣王には方叔・召虎があり、詩人はこれを歌って雅に列した。漢の中興には充国が武を成した、たくましく勇ましく、またその跡を継いだのである。