前漢紀前漢孝宣皇帝紀三 四年 前58年

  • 春二月、詔して言った。「先ごろ鳳凰と甘露が京師に降り集まり、嘉瑞が並び現れた。五帝・太一・后土の祠を修め興したところ、鸞鳳が翔けて傍らに降り集まり、斎戒の夕べには神光が顕れた。鬯を薦める夕べには神光が交錯し、あるいは天に登りあるいは池に降り、四方から壇上に集まった。上帝が嘉して饗け、海内が福を承けている」。天下に恩赦し、民に爵を、鰥寡と高齢者に帛を賜った。

黄覇

  • 夏五月、潁川太守の黄覇は治績が格別だとして秩二千石とされ、関内侯の爵と黄金百斤を賜った。潁川の吏民で行義のある者には爵二級、力田には一級、貞潔で順良な女には帛が賜られた。
  • 覇の政は、まず教化を先にして刑罰を後にした。農桑に努め、費用を節約して財を殖やし、穀を食う馬を減らした。聡明で下の事情を知り尽くしていた。
  • あるとき吏を派遣して調査させ、吏が帰ると、覇はねぎらって「難儀であったな。道端で食事をしたところ、烏に肉を盗られたそうだが」と言った。吏は大いに驚き、神のようだと思った。覇が細かなことまで知っていると思って、少しも隠さなくなった。
  • 民に鰥寡孤独の死者が出ると、覇は吏に「どこそこに大木があり棺にできる。どこそこの亭に子豚があり祭りに使える」と告げた。吏が行ってみると、すべてその通りだった。吏民はどこから知るのか分からず、皆神明と称した。悪人は郡を去って他の境に移った。
  • 郡丞が老病で耳が遠く、督郵が自ら追い出そうとしたが、覇は許さなかった。理由を問われると答えた。「長吏をたびたび替えれば、送迎の費用がかさむ。姦吏はこれに乗じて公私の費えを増やし、その多くは民から出る。新しい長吏が必ず賢いとも限らぬ。およそ治の道とは、甚だしいものを除くだけのことだ」。
  • 覇は外は寛やかで内は明察であり、吏民の心を得た。戸口は年々増え、治績は天下第一とされた。
  • 五月、詔して郡国に賢良を挙げさせた。匈奴が弟の呼留若勝之を遣わして来朝させた。
  • 冬十月、鳳が十一羽、杜陵に集まった。

厳延年

  • 十一月、河南太守の厳延年が罪を得て棄市された。
  • 延年の政は厳酷で、冬には属県の囚人を府に集めて処断し、流れた血が数里に及んだ。河南では「屠伯」と呼んだ。
  • 府丞は老いてかなり惑乱しており、もともと延年を畏れて中傷されるのを恐れていた。延年は実際には彼を親しみ厚遇していたが、丞はますます自ら恐れ、自ら筮って死の卦を得た。そこで休暇を願い出て京師に上り、上書して延年の罪状十か条を挙げた。奏を差し出すとそのまま薬を飲んで自殺し、偽りでないことを示した。
  • 事は下されて調べられ、これらの事実があったので、延年は政治を誹謗した不道の罪に問われた。
  • これより先、延年の母が東海から来て、ちょうど囚人を処断するところに行き合わせた。母は怒って延年に言った。「天道は神明である。人はひとり殺し続けてよいものではない。行きなさい。私はお前のもとを去って東に帰り、墓所を掃き清めてお前を待つばかりだ」。母は帰って一族兄弟にもこのことを語った。その一年余りのちに延年は誅された。
  • 延年は酷薄ではあったが政事に敏く、令は行われ禁は守られ、郡国は粛然と清まった。これより先、涿郡太守だったとき、豪強が放縦で盗賊が横行し、吏民は皆「二千石には背いても豪強の大家には背けない」と言っていた。延年は着任すると大姓の高氏らを取り調べて誅し、殺した者は十人に及んだ。郡中は恐れおののき、道に落ちたものを拾う者もなくなった。
  • 帝が即位した当初、延年は御史として、霍光がほしいままに廃立を行い主上に対する人臣の礼を欠いた大不道である、と弾劾した。奏は取り上げられなかったが、朝廷は粛然として彼を敬い憚った。
  • 延年の兄弟五人は皆吏才があり、二千石の大官に至った。東海では「厳氏の母は賢い」として「万石厳嫗」と呼んだ。
  • 延年のすぐ下の弟の彭祖は才芸があり、春秋を学んで伝と経注記に明るかった。これがすなわち厳氏春秋である。官は左馮翊・太子太傅に至ったが、当世に求めるところなく、儒者の宗とされた。
  • ある人が彭祖に言った。「天の時は人事に勝てぬ。君は小さな礼を修めず意を曲げず、貴人や側近の助けもない。経義がいかに高くとも宰相には至るまい。少しは自ら努められよ」。彭祖は答えた。「およそ経術に通じたからには、先王の道を修めるべきだ。どうして意を曲げて俗に従い、富貴をむさぼり求められようか」。ついに太傅の官のまま終わった。
  • 十二月、鳳凰が上林に集まった。