- 春、楽遊苑を造営した。
- 二月丙辰、丞相魏相が薨じた。四月戊辰、御史大夫邴吉が丞相となった。
邴吉の器量
- 邴吉は刑法を扱う小吏から身を起こしたが、丞相となると礼譲をもって下に臨んだ。掾吏に罪があると、そのつど長期の休暇を与えて取り調べなかった。吉は「丞相府に吏を取り調べるという評判が立つのは、私にはつまらぬことだ」と言った。公府が吏を取り調べなくなったのは邴吉に始まる。
- 御史が酒を好み、酔って吉の車の敷物に吐いた。西曹が罷免を進言したが、吉は言った。「酔いの失敗で士を退けたら、この者はどこに身を置けようか。西曹よ、堪えよ。丞相の車の敷物を汚したにすぎぬ」。
- のち辺境に敵が侵入して奔命の兵が発せられたとき、この御者は辺事に通じており、駅騎が赤白の袋を持つのを見て敵の侵入と察し、急ぎ吉に告げた。そして「敵がまた入るかもしれません。長吏は皆老いて兵馬に堪えません。あらかじめお調べになるのがよい」と言った。吉が調べ始めてまだ終わらぬうちに召し出されて問われ、吉は詳しく答えられた。御史大夫は詳細を知らず譴責され、吉は辺境を憂え職に忠実だと見なされた。吉は嘆じた。「士に容れられぬ者はない。あのとき御者の言を聞いていなければ、どうしてねぎらいを受けられたろう」。
- 吉があるとき郡で乱闘があり死傷者が道端に横たわっているのに出会ったが、問わずに通り過ぎた。先へ行くと、人が牛を追っており、その牛が血を吐いて喘いでいた。吉は騎を遣わし、牛を追って何里来たのかと問わせた。掾吏は丞相の問い方が前後で筋違いだと譏った。
- 吉は答えた。「人が争って殺し合うのは長安令と京兆尹の職分だ。年末に丞相がその成績を評定し、賞罰を奏上すればよい。丞相は小事に自ら関わるものではなく、道すがら問うべきことでもない。今は春で少陽が働く時期であり、まだ暑いはずがない。牛が少し歩いただけで暑がって喘いでいるのは、時候が節を失っていることになり、害があるかもしれない。三公は陰陽を調える職にあり、憂うべきはそこだ。だから問うたのだ」。
- 吉の子の顕は議曹掾として高祖廟の祭祀に従ったが、犠牲を検分する夕べになってから斎服を取りにやらせた。吉は怒って「宗廟は至って重い。それを顕は敬わぬ。私の爵を失わせるのは必ずこの子だ」と言った。
その他
- 秋七月甲子、大鴻臚の蕭望之が御史大夫となった。
- 八月、詔して言った。「吏が廉潔公平でなければ治道は衰える。今、小吏は皆よく勤めているのに俸禄が薄い。かすめ取るなというのは難しい」。吏の百石以下の俸を五十斛増やした。
- この年、光禄大夫の梁丘賀が少府となった。賀は字を長翁といい琅邪の人で、初め計算に長けて武騎となり、のち郎となった。
- 帝が孝昭廟を祠ったとき、先駆けの旄頭の大剣が抜け落ちて地に刺さり、切っ先が泥に沈んで刃が上を向き、乗輿の馬が驚いた。帝は賀を召して筮わせると、「兵事があり不吉です」と出た。帝は引き返し、担当官に代わりに祠らせた。
- このとき霍氏の外孫の任宣は代郡太守で、謀反に連座して誅されていた。宣の子の章は公車丞であったが、夜に逃亡し、黒い袖の服で廟に入り込み、戟を持つ郎の間に紛れて逆を企てた。発覚して誅に伏した。以後、明るくなってから廟に入るようになったのはここに始まる。
- 賀は筮が的中したことでこれより近く用いられ、大夫から少府に至った。人柄は小心で周密であり、帝は信頼して重んじた。賀は易に明るく、賀の子の臨も易に精しく、黄門侍郎として石渠で講論した。