前漢紀前漢孝宣皇帝紀三 二年 前60年

  • 春正月乙丑、甘露が降り、鳳凰が京師に集まり、群鳥が万を数えて従った。

西羌平定と趙充国

  • 夏五月、西羌が平定され、首謀者の大豪楊玉の首が斬られて降伏した。金城属国を置いて降った羌を住まわせ、天下に恩赦した。
  • 後将軍趙充国が帰還すると、親しい浩星賜が迎えて説いた。「人々は皆、破羌将軍・強弩将軍が出撃して斬首し降者を得たから崩れたのだと思っています。しかし識者は、敵の勢いが窮迫していたから、兵を出さずとも自ら服したはずだと見ている。とはいえ将軍は主上に見えたら、功を二将軍に帰されるのがよい」。
  • 充国は答えた。「私は年老い、爵位も極まっている。どうして一時の功を誇ることを嫌おうか。兵の勢いは国の大事であり、後の世の法とすべきものだ。老臣が残る命で一度でも陛下に兵の利害を申し上げておかねば、死んだあと誰が言うのか」。ついに自分の考えのままに答え、帝もその計を是とした。
  • 武賢はこれを恨み、上書して充国の子の中郎将卭を告発した。以前、従軍して西羌にいたとき、車騎将軍張安世が常に主上の意に沿わず、主上がたびたび誅そうとしたのを、卭の家の将軍が主上に「安世は孝武皇帝に数十年仕え忠謹と称された。全き恕しを賜るべきです」と言って免れさせた、という話を漏らしたというのである。卭はまた、立ち入りを禁じられた区域に入り、充国の幕府の司馬の中で屯兵を乱したかどに問われ、獄吏に下されて自殺した。
  • 充国は骸骨を乞い、金と安車・駟馬を賜って免ぜられ屋敷に退いた。
  • 充国は初め司馬として弐師将軍に従い匈奴を撃ったとき、大いに敵に囲まれ、漢軍は数日食を絶ち死傷者が多かった。充国は壮士百余人とともに囲みを破って陣に突入し、弐師将軍が軍を率いて続いたので、ついに脱出できた。身に二十余の傷を負い、武帝は嘆じて車騎将軍長史に抜擢した。太始のころ霍光とともに策を定めて宗廟を安んじ、営平侯に封じられた。

日逐王の降伏と西域都護

  • 秋、匈奴が大いに乱れ、日逐王の先賢単于が降ってきた。
  • このとき衛司馬で会稽の人の鄭吉が鄯善以西南道の保護にあたっており、車師を攻め破っていた。日逐王は鄭吉に降伏を願い出た。吉は諸国の兵五万人を発して日逐王を迎え、口一万二千人、小王・将十二人を得た。河曲でかなり逃亡者が出たので、吉は追って斬った。そのまま京師に連れて行き、日逐王は帰徳侯に封じられ、吉は安遠侯に封じられた。
  • 吉には車師以西北道もあわせて護らせたので都護と号した。都護の号は吉に始まる。こうして吉は初めて西域の中央に幕府を立て、塢塁城を整えて諸国を鎮撫した。漢の号令が西域に行き渡ったのは、張騫に始まって鄭吉に成ったのである。

蓋寛饒

  • 九月、司隷校尉の蓋寛饒が獄に下されて自殺した。
  • 寛饒は魏の人で儒学者に宗とされ、剛直で公正清廉、たびたび上意に逆らった。在位が長いのに昇進せず、後から来た者に追い越されることが多かった。寛饒は自らその行いと能力を誇り、内心では満たされずにいた。
  • 当時、帝はもっぱら刑法を用い中書の官を任じていた。寛饒は封事を奏して言った。「今、聖なる道は次第に衰え儒術は行われず、刑獄を周公・召公とし、法律を詩書としております」。さらに易伝を引いて「五帝は天下を官として伝え、三王は天下を家として伝えた。家は子孫に伝え、官は聖賢に伝える。四時の運行のごとく、功を成した者は去る。その人でなければその位に居らぬ」と述べた。
  • 書が奏されると、帝は寛饒が怨み誹謗していると見てその書を下した。時の執金吾は「寛饒の意は禅譲を求めるもので、大逆不道である」と議し、ついに獄に下された。
  • 諫議大夫の鄭昌が上書した。「司隷校尉は食に飽くを求めず居に安きを求めず、進んでは国を憂える心があり、退いては身を捨てる義があります。上には許氏・史氏のような縁者もなく、下には金氏・張氏のような後ろ盾もない。職は監察にあり、直き道を行うがゆえに仇が多く味方が少ない。上書して国事を諫めたところ、担当官が大辟をもって弾劾しました。臣は幸いにも大夫の末席におり、官は諫めるを名としております。申し上げぬわけにはまいりません」。
  • 帝は聴かず、ついに廷尉に下した。寛饒は佩剣を抜いて自殺した。
  • 寛饒が司隷であった間、京師は粛然と清まった。貧しく暮らし、子弟は常に徒歩で自ら北辺の守備に赴いた。しかし性質はかなり厳しく、摘発に容赦がなかったので、貴戚・大臣は誰もが彼を怨んだ。
  • 平恩侯許伯が新邸に入ったとき、丞相・御史大夫・中二千石が皆祝いに来たが、寛饒は来なかった。許伯が請うたので出向き、西の階から上がって東向きに一人だけ座った。許伯が自ら酌をすると、寛饒は「私に多く注ぐな。私には酒狂がある」と言った。丞相は笑って「次公は素面でも狂ったようだ。酒のせいでもあるまい」と言った。座の者は皆注目して寛饒を低く見た。
  • 酒がたけなわで音楽が始まり、長信少府の檀長卿が立って舞い、猿が犬と闘う真似をして座は大笑いした。寛饒は不快で、屋根を仰いで嘆じた。「富貴は常なく、たちまち人が入れ替わる。この屋敷も宿場のように多くの主を見てきたことだろう。ただ謹慎な者だけが長く保つ。君侯よ、戒めぬわけにいきますまい」。そう言って立ち去り、長信少府が列卿の身で猿の舞をして礼を失い不敬であると弾劾した。帝は少府を罪しようとしたが、許伯が請うたのでやめた。
  • 寛饒が初め衛尉司馬だったころ、それまで司馬は部内で衛尉に会えば拝謁し、衛尉の私用で買い物に使われることもあった。寛饒は旧令を調べ、衛尉には揖するにとどめた。衛尉が私用を言いつけると、寛饒は令に照らして府門に出向いて辞去を告げ、尚書に申し立てた。尚書が衛尉を責問したので、以後は私用を命じられなくなり、司馬は拝礼しなくなった。
  • 寛饒は司馬として単衣の裾を切って短くし、自ら士卒を見回って慰撫し、大いに恩信を得た。年が尽きて交代となり、帝が臨席して衛士を饗し解散させたとき、数千人が皆叩頭して、寛饒の厚徳に報いるためもう一年留任させてほしいと願い出た。
  • 匈奴の単于が名王を遣わして貢を奉り、正月を賀した。和親が始まった。