前漢紀前漢孝宣皇帝紀一 三年 前71年

許皇后の毒殺

  • 春正月癸亥、皇后許氏が崩じた。もともと霍光の夫人の顕には末娘があり、これを皇后にしたいと望んでいた。皇后が出産で病んだとき、顕はひそかに医者の淳于衍に毒を用いさせた。
  • のち、病の治療が不適切だった医者たちを告発する上書があり、皆捕らえられた。顕は恐れ、事情をすべて霍光に打ち明け、「もう仕方がない。吏に淳于衍を厳しく責めさせないでほしい」と言った。霍光は驚愕して黙り、のち上奏して淳于衍を罪に問わないよう取り計らい、事は発覚しなかった。

匈奴・烏孫との戦い

  • 夏、大旱魃。五月、御史大夫田広明を祁連将軍とし、蒲類将軍趙充国・虎牙将軍田順・度遼将軍范明友・前将軍韓増と合わせ兵十五万、校尉常恵が節を持って烏孫の兵を監督し、ともに匈奴を撃った。
  • もともと匈奴はしばしば辺境を侵し、西では烏孫を伐っていた。武帝は烏孫と共に匈奴を撃とうと考え、江都王建の娘の細君を公主として烏孫の昆弥に嫁がせた。昆弥は馬千匹を聘礼とし、漢は公主のために属官・内官・侍御数百人を備えた。公主は自ら宮室を建てて住み、歳時に昆弥と飲食したが言葉が通じず、公主は悲しみ愁えた。帝はこれを聞いて憐れみ、一年おきに使者を遣わして手厚く贈った。
  • 細君が没すると、楚王戊の孫娘の解憂を公主として後を継がせた。そのころ匈奴が再び烏孫を侵したので、昆弥と公主が上書して共同で匈奴を撃つことを願い出た。烏孫は自ら五万騎を率いた。
  • 常恵と烏孫は匈奴の父の代の者や嫂、名王・都尉以下四万余級を獲り、牛馬駱駝七十余万頭を得た。烏孫は捕獲物をすべて自ら取った。
  • このとき匈奴は漢の大挙出兵を聞き、老弱を連れ家畜を追って遠くへ逃げたため、漢軍の獲物は少なかった。祁連将軍と虎牙将軍は罪を問われ、ともに自殺した。常恵は長羅侯に封じられた。
  • 匈奴はこれによって人民・家畜の死亡が多く、国は疲弊した。その冬、単于が自ら烏孫を撃ったが、大雪に遭い一日で一丈余り積もった。匈奴の人民・家畜は凍死し、帰還できた者は十に一、二もなかった。そこへ丁零が弱みに乗じて北を攻め、烏丸が東に、烏孫が西に侵入した。さらに飢餓が重なって十のうち三が死んだ。匈奴は大いに窮し、従属していた諸国は瓦解し、略奪を取り締まることもできなくなり、匈奴はこうして衰えた。
  • 六月乙丑、丞相蔡義が薨じた。甲辰、長信少府の韋賢が丞相、大司農の魏相が御史大夫となった。