前漢紀前漢孝宣皇帝紀一 二年 前72年

田延年の死

  • 春、大司農田延年が罪を得て自殺した。延年は斉の人で、策を定めて社稷を安んじた功により陽城侯に封じられていた。
  • 官が民の車牛三万乗を賃借りして便橋の下から砂を運び陵に送らせた際、車一台の代金は千銭だったが、延年は偽って二千銭に増やし、三千万の横領にあたるとされた。
  • 御史大夫田広明は霍光に言った。「春秋の義では功をもって過を覆う。昌邑王を廃したとき、田子賓(延年)がいなければ大事は成らなかった。今、官が三千万出したところで何の苦がありましょう」。
  • 霍光は答えた。「そのとおり、子賓は実に勇士だ。大義を発すべきときに朝廷を震わせた」。そして手を上げて胸をなでながら「あのとき以来、今日まで動悸の病が残っている」と言った。大司農に、獄に赴けば公卿と議することができると諭した。
  • しかし延年は「幸い官が私に寛大でいてくれたのだ。どんな顔で牢獄に入れよう」と言い、自刎して死んだ。

武帝の廟号と夏侯勝

  • 夏四月、担当官に孝武の廟楽を議させた。六月庚午、孝武の廟を尊んで世宗と号し、盛徳・文始・四時・五行の舞を奏することとした。武徳・昭徳・盛徳の舞はいずれも祖宗を尊ぶためのもので、諸帝の廟にはすべて文始・四時・五行の舞を奏すべきものとされた。武帝が巡狩して訪れた郡国にはすべて廟を立てて告祠することとした。
  • 世宗廟に祠るとき、白鶴が後庭に集まった。世宗廟の建立を告祠したところ、孝昭の寝廟には五彩の雁が殿前に集まった。西河郡に世宗廟を立てると、神光が殿の脇に、また房中に灯火のような形で現れた。広川郡に世宗廟を立てると、殿上に鐘の音がし、房の戸がひとりでに開き、夜に光があって殿上が明るくなった。
  • 当初、世宗廟の建立を議したとき、長信少府の夏侯勝は「武帝は多くの士卒を殺し民の財力を尽くし、奢侈に度がなかった。廟を立てるべきではない」と主張した。勝は詔書を誹謗し先帝を毀ったとして不道の罪に問われ、丞相長史の黄覇も見過ごして弾劾しなかったとして、ともに投獄され長く拘禁された。
  • 黄覇は獄中で夏侯勝に師事したいと願った。勝は死罪の身だと辞退したが、覇は「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」と言った。勝はその言を賢としてついに教え、覇は尚書を受けた。二度の冬をまたぐ拘禁の間、講義を怠らなかった。
  • 恩赦に会って勝は出獄し諫議大夫・給事中となり、黄覇を推薦して揚州刺史とした。黄覇は字を次公といい淮陽の人、夏侯勝は字を長公といい夏侯始昌の一族の子である。
  • 勝は質朴で威儀にこだわらず、帝に謁見するとき誤って帝を「君」と呼んだり、御前で自分の字を称したりした。帝はかえってこれによって親しみ信任した。あるとき退出して帝の言葉を人に語ったので、帝が咎めると、勝は答えた。「陛下のお言葉が善いので広めたのです。堯の言葉は天下に布かれ今も誦されています。臣は伝えるに足ると思ったまでです」。
  • 朝廷で大きな議論があるたび、帝は勝に「先生、遠慮なく正論を述べよ。前の一件に懲りることはない」と言った。もともと皇太后が聴政した際、霍光は令によって太后に夏侯勝から尚書を学ばせていた。勝が没したとき、太后は五日間喪服を着け、儒者はこれを名誉とした。