- 春正月甲戌、丞相の車千秋が薨じた。千秋はもと斉の田氏で、老齢のため帝が優遇して小車で殿上に乗り入れることを許したので、世に小車丞相と呼ばれ、それが氏となった。
- 二月乙丑、御史大夫王訢が丞相となった。王訢は初め范陽令だったとき、直指使者の暴勝之に斬られそうになった。訢は衣を解いて伏し、顔を上げて言った。「使者は生殺の権を専らにし威は郡国に振るっています。今ここで訢一人を斬っても威は増しません。それより特別に寛大に処して恩を明らかにし、死力を尽くさせる方がよいでしょう」。暴勝之は赦して誅せず、訢を推薦した。訢は召されて右輔都尉となり、ついに丞相まで進んだ。
- 大司農楊敞が御史大夫となった。
- 夏四月、度遼将軍范明友は烏丸を破った功と先の益州平定の功により平陵侯に封じられた。
傅介子、楼蘭王を誅す
- 平楽監の傅介子が節を持って楼蘭王を誅した。当時、楼蘭は漢の使者を殺していた。介子は霍光に自ら願い出た。「行って殺し、諸国に威を示したい」。
- 金幣を携え、外国に賜与すると言い触らして向かったが、楼蘭王は受けようとしなかった。介子は偽って西へ引き上げるふりをし、「天子が諸国に金幣を賜るのに来ないのなら、私は西へ行く」と言い、多くの金幣を出して楼蘭の駅使に見せた。楼蘭王は漢の財物を欲しがり、使者に会いに来た。
- 介子が「天子は私にひそかに王へ伝えることを命じた」と言うと、王は介子とともに帳中に入った。人払いをして語るうち、壮士二人が背後から刺し、刃が胸で交わった。左右の者は散り逃げた。
- 介子は告げ諭した。「王が漢に背いた罪は大きい。天子は私を遣わして王を誅させた。改めて、これまで漢にいた太子を立てる。漢兵がまさに到着する。動けば国を滅ぼすぞ」。こうして王子の安師を立て、王の首を持ち帰って北闕に懸けた。介子は義陽侯に封じられた。
その他
- 五月丁亥、孝文廟の正殿が火災に遭った。
- 六月、天下に恩赦。