- 春、泗水戴王の子の援を泗水王に立てた。戴王が先に薨じたとき子がないとして国は除かれていたが、後宮に遺腹の子があり、相と内史がこれを奏上しなかった。帝は事情を聞いて憐れみ、援を王に立て、相と内史を投獄した。
- 武都の氐人が反乱。執金吾馬適建らを遣わし、三輔・太常の徒刑者を率いて撃たせた。
- 夏六月、天下に恩赦。
- 秋七月乙亥晦、皆既日食があった。
上官桀・燕王旦の謀反
- 九月、鄂邑長公主・燕王旦・左将軍上官桀・その子の驃騎将軍安・御史大夫桑弘羊がそろって謀反を企て、誅に伏した。
- 上官桀父子は驕り高ぶり、長公主は宮中で帝の養育にあたり、桑弘羊は国のために利を興したことを自ら誇っていた。それぞれ子弟や一党のために官職を求めて霍光に私的な口利きをしたが、霍光は聞き入れず、これが権力争いと霍光への害意に発展した。
- 一味は人を使って燕王旦の名で上書させ、「霍光が郎官の演習に出た際、道中で天子の行幸のように警蹕を称し、太官に先回りで食事を用意させた。また勝手に幕府の校尉を増員した。霍光は専権をほしいままにしており、異心が疑われる」と訴えた。霍光の休沐の日を狙って奏上し、上官桀は宮中からこれを下して処理させ、桑弘羊が大臣と共に霍光を退けるつもりだった。
- 上書が届いても帝は下命を拒んだ。霍光が参内すると帝は言った。「あの上書は偽物だ。将軍に罪はない」。霍光が「どうしてお分かりに」と問うと、帝は答えた。「将軍が広明で郎官の演習をしたのはつい先日のことだし、校尉を調発してまだ十日も経っていない。燕王がどうして知り得よう。それに将軍が謀反するつもりなら、幕府の校尉を増やす必要などない」。このとき帝は十四歳で、左右の尚書は皆驚いた。果たして上書した者は逃亡した。
- その後も上官桀らがたびたび霍光を讒したが、帝はそのたびに怒って「大将軍は忠臣で、先帝が朕の補佐を託した人だ。誹謗する者は処罰する」と言い、以後一味は口を出せなくなった。
- そこで一味は、長公主に酒宴を設けさせて霍光を招き、伏兵で殺害し、帝を廃して燕王を迎え立てる、燕王が到着したらこれも殺して上官桀を帝位につける、という計画を立てた。燕王は使者の書簡で応じ、上官桀を王に立てることを約束し、外は諸郡国と結んだ。郡国の豪傑は千を数え、燕王は成功を確信して群臣に旅装を整えさせた。
- このころ大雨が降り、虹が燕王の宮に垂れ下がり、宮中の井戸水はすべて涸れた。黄色い鼠が燕王の殿前の端門で舞い、見ても去らず、一日一夜で死んだ。殿上の戸が自然に閉じて開かなくなり、厠から豚の群れが出て竈を壊し、御用の釜六十枚が殿門の前に置かれた。宮中で烏と鵲が争い烏が死に、天火が燕の南城門を焼き、大風が宮城の楼板と樹木を壊し、流星が地に落ちた。后妃以下は皆恐れ、王は驚いて病んだ。燕の占い師は「兵が城を囲む事態が十月にあり、漢では大臣で誅殺される者が出る」と言った。
- 蓋主の舎人の父である燕倉がこの謀を知って大司農楊敞に告げ、楊敞が諫議大夫杜延年に告げて上聞に達し、上官桀らは誅に伏した。
- 燕王はこれを聞き、相の平に「事は敗れた。兵を出すべきか」と問うた。平は「左将軍はすでに死に、民も皆知っております。挙兵はできません」と答えた。王は憂悶し、賓客・群臣を集めて酒宴を開いていたところへ使者が至り、璽書を賜った。「王とは骨肉の至親、我が身と一体である。それを他族異姓と組んで社稷を害そうと謀り、疎き者を親しみ親しき者を疎んじた。悖逆の心はあっても忠愛の義はない。古人に知覚があったなら、どんな顔で酒を捧げ高祖の廟に見えるのか」。
- 旦は綬で自ら首を絞めて死に、后・夫人ら二十余人が殉じた。詔により燕の太子建は赦されて庶人とされ、旦には刺王と諡された。燕の吏民は赦され、杜延年と燕倉はともに侯に封じられた。楊敞は大臣でありながらすぐに上聞しなかったとして封じられなかった。上官桀らに誤られたが発覚前だった者は罪を免じられた。
- 五行の記録ではこう解する。烏と鵲が燕王の宮中で争い烏が死んだのは黒祥に近い。楚王戊のときは烏と鵲が野で群れて争い白い方が死んだ。燕王の場合は一羽ずつが宮中で争い黒い方が死んだ。ともに反乱誅滅の兆しであり、占いの理は合致する。これは天と人の明らかな対応である。楚は外で挙兵して野で大敗したから、多くの烏のうち白く金色の者が死んだ。燕王は陰謀が発覚前で、王が独り宮内で自殺したから、水の色をした一羽の烏が死んだ。これが天道の精微な現れである。南城門が焼けたのは漢への道が通じることを示し、天火はそこを行き来して姦謀を通じたことへの戒めである。豚が出たのは豕禍に近く、聴くことが聡明でない、暴急の咎である。竈が壊れ釜が庭に並べられたのは、もう使われぬこと、すなわち宮室が廃されることを示す。黄鼠が端門で舞ったのは黄祥に近く、思慮が乱れることへの応であり、敗死亡国の象である。
- 庚午、右扶風の王訢が御史大夫となった。