- 春三月甲寅、上官氏を皇后に立て、天下に恩赦した。二年より前の訴訟はすべて取り上げないこととした。
上官皇后立后の経緯
- もともと上官桀の子の安が霍光の娘を娶って姻戚となり親しく、霍光が休暇で出るときは上官桀が代わって政務を決裁していた。
- 鄂邑蓋長公主は子客の河間の丁外人と私通しており、帝と霍光はこれを知りながら黙認して公主の機嫌をとった。詔で丁外人を長公主に付け、長公主は周陽氏の娘を宮中に入れて帝の配偶にしようとした。
- 上官安には娘(霍光の外孫)がおり、安は霍光を通じて入内させようとしたが、霍光は幼すぎるとして許さなかった。
- そこで安は親しい丁外人に説いた。「長公主が娘を入内させると聞くが、私の娘は容貌が端正だ。長公主の口添えで后に立てば、父子が朝廷にあって后宮の重みも加わる。成否はあなた次第。漢の慣例では列侯が公主を娶るのだから、あなたが列侯に封じられぬ心配もあるまい」。
- 丁外人が喜んで長公主に伝え、長公主も同意して、詔により安の娘は婕妤として入内、安は騎都尉となった。一月余りで娘は皇后に立てられ、后の父として安は桑楽侯に封じられ食邑千五百戸、車騎将軍に転じた。
その他
- 夏六月、皇后が高廟に参拝。長公主・丞相・列侯・中二千石以下および郎吏・宗室に差をつけて銭と帛を賜った。三輔の富人を雲陵に移住させ、一戸あたり十万銭を与えた。
- 秋七月、詔して「近年不作が続き民は食に窮し、流民は帰り尽くしていない」として、かつて民に馬を出させた制を停止し、中都官への供給も減らすこととした。
- 大鴻臚田広明を遣わして益州を撃たせた。廷尉李种は死罪の者を故意に見逃したかどで棄市となった。