前漢紀前漢孝武皇帝紀六 後元二年 前87年

後事の託と幼主の即位

  • 春正月、甘泉宮で諸侯王と宗室の朝見を受け、宗室に賜与した。
  • 二月、盩厔の五祚宮に行幸した。武帝の病が重くなり、侍中光禄大夫の霍光が後継を尋ねた。武帝は「そなたは先に与えた絵の意味がまだ分からぬのか。末子を立て、そなたは周公の事を行え」と言った。これに先立ち武帝は、周公が成王を輔けて諸侯の朝を受ける図を描かせて霍光に賜っていたのである。
  • 霍光は頭を地につけて辞し、「臣は金日磾に及びません」と言った。金日磾は「臣は外国の人です。それでは匈奴に漢を軽んじさせることになりましょう」と言った。
  • 三月乙卯、光禄大夫の霍光を司馬大将軍に、金日磾を車騎将軍に、太僕の上官桀を左将軍に、搜粟都尉の桑弘羊を御史大夫に拝した。いずれも病床の下で任じられ、丞相の田千秋とともに遺詔を受けて幼主を輔佐することとなった。
  • 燕王の劉旦、広陵王の劉胥はいずれも過失が多く、後嗣とはされなかった。
  • 末子の劉弗陵は鉤弋夫人の趙婕妤の子である。はじめ武帝が巡狩して河間を過ぎたとき、望気の術者が「この邑の中に非凡な女の気があります」と言った。武帝が召し寄せると、その女は両手が握られたままだった。武帝が自ら手を撫でると、たちまち開いた。これによって捲夫人と号し、鉤弋宮に住んで大いに寵愛された。身ごもって十四か月で子を生んだ。武帝は「昔、堯は十四か月で生まれた。鉤弋の子もまた同じだ」と言い、生まれた門を堯母門と名づけた。
  • はじめ武帝は鉤弋の子を太子に立てようとしたが、母が若く、女主が政を執ることになるのを心配していた。たまたま鉤弋に過ちがあったので譴責し、憂えのうちに死なせた。
  • 乙酉、皇子の劉弗陵を皇太子に立てた。
  • 丁丑、帝は五祚宮で崩じ、未央宮に入れて殯した。

史論(讃曰)

  • 『本紀』に言う。漢は百王の弊を承け、高祖が乱を収めて正に戻し、文帝・景帝は民を養うことに努めたが、古を稽え礼と文を整えることについてはなお欠けるところが多かった。
  • 孝武は即位すると、断然として百家を退け六芸を顕彰し、海内に人材を諮って俊才を挙げ、功業を興した。太学を立て、郊祀を修め、正朔を改め、暦数を定め、音律を調え、礼楽を作り、封禅を建て、百神を礼し、国の典章を継ぎ、号令を発した。その文章は燦然として述べるに足り、後嗣はその大業を承けて三代の風があった。
  • 武帝ほどの雄才大略をもちながら、文帝の恭倹を改めずに民を救っていたなら、『詩』『書』に称えられる聖王とても、これに何を加えられただろうか。