前漢紀前漢孝武皇帝紀五 天漢二年 前99年

李陵の奮戦と降伏

  • 春、東海に行幸し、帰りに回中に立ち寄った。
  • 夏五月、貳師将軍李広利が三万騎を率いて酒泉から出撃して匈奴を撃ち、一万余級を斬首・捕虜とした。因杆将軍は西河から出撃した。騎都尉の李陵は歩兵五千を率いて居延から出撃し、鞮汗単于と戦って一万余級を斬ったが、兵は敗れて李陵は匈奴に降った。
  • 李陵は李広の孫で、李敢の兄の李当戸の子である。武帝が李陵に貳師将軍の輜重を監督させようとしたところ、李陵は頭を下げて「一隊を自ら受け持ちたい」と願い出た。武帝が「おまえに与える騎兵はない」と言うと、李陵は「騎兵は不要です。少数で多数を撃ちたく、歩兵五千で単于の本拠に踏み込みます」と言った。武帝はその意気を壮として許した。
  • 李陵は峻稽山に至って単于と遭遇した。単于は三万騎で李陵を攻めた。李陵は千余の弩を一斉に射かけ、当たった者はみな倒れた。敵は退いて山に登ったが、李陵は追撃して数千人を殺した。
  • 単于は大いに驚き、左右の賢王を召して八万騎を急派し李陵を攻めた。李陵は戦いながら退き、南へ数日行って山谷の中に至り、再び大いに戦って三千余級を斬った。兵を東南へ進めること五日、大きな沢の葦の茂みに至ると、敵が風上から火を放って焼き払おうとしたので、李陵も自軍から火を放って身を守った。
  • 南へ行って山の下に至ると、単于は山上にあって子に騎兵を率いて李陵を攻めさせた。李陵は徒歩で樹木の間で戦い、また敵数千を殺し、連弩を放って単于を射たので、単于は山を下って逃げた。
  • この日捕らえた捕虜が伝えるに、単于は「これは漢の精兵だ。我らを南へ引きつけて塞に近づけている。伏兵がいるのではないか」と言い、諸将は「単于が自ら数万騎を率いて漢の数千人を撃って勝てなければ、この先、辺境の臣を使いにくくなり、漢はますます匈奴を軽んじます。山谷でもう一度力戦し、なお四、五十里も進んで平地に出ても破れなければ、そのとき引き返しましょう」と答えたという。
  • この日、数十合を交え、なお力戦して敵二千余人を殺傷した。敵は不利と見て退こうとした。
  • ところが李陵の軍の候の管敢が校尉に辱められて逃亡し匈奴に降り、漢軍には後詰めがなく矢も尽きかけていると詳しく告げた。単于は大喜びして進撃し、騎兵に一斉に漢軍を撃たせ、「李陵、韓延年、早く降れ」と大声で叫ばせ、道をふさいで攻め、四方から矢を雨のように射かけた。
  • 李陵は矢が尽きると軍を棄てて去った。士卒はなお三千余人あり、車の輻を折って武器とし、軍吏は小刀を持って山谷に逃げ込んだ。単于が入って道をふさぎ、山上から石を落としたので、士卒の多くが死んで進めなくなった。
  • 李陵は「兵は敗れた。わしは死ぬ」と言った。軍吏の中には降伏を勧める者もあったが、李陵は「死なねば壮士ではない」と言い、また嘆いて「あと数十本の矢があれば逃れられたものを。いまは戦う武器もない」と言った。軍士に糒三升と氷一片を持たせ、それぞれ散って遮虜鄣で落ち合えと命じた。
  • 李陵は韓延年とともに馬に乗り、従う壮士は数十人であった。敵の千騎が追い、韓延年は戦死した。李陵は「陛下に報いる顔がない」と言って降った。士卒は散り散りになり、塞にたどり着いたのは四百余人であった。李陵が敗れた場所は塞から百余里であった。
  • 単于は長女を李陵に娶わせ、右校王に立てた。

司馬遷の禍

  • 武帝は李陵が降ったと聞いて激怒し、大臣は憂え恐れた。太史公の司馬遷が李陵の功を述べ、李陵が死なずにいるのは、しかるべき機会を得て漢に報いようとしてのことだろうと言上した。
  • はじめ武帝が貳師将軍を出撃させたとき、李陵に助勢を命じていた。李陵が単于と対峙する一方で貳師将軍には功がなかったため、武帝は司馬遷が貳師将軍を貶めるために李陵の弁護をしたと考えた。
  • のちに捕らえた匈奴の捕虜が「李陵が単于に兵法を教えている」と言ったので、武帝は怒って李陵の一族を誅し、司馬遷を腐刑に処した。
  • 李陵はこれを聞いて「単于に兵法を教えたのは李緒であって、わしではない」と言った。李緒はもと塞外都尉で、これに先立って匈奴に降っていた。李陵は一族が李緒のせいで誅されたことを痛み、人をやって李緒を刺殺させた。
  • 司馬遷は李陵の禍に遭って深く嘆き、幽閉の中で発憤して『史記』を著した。黄帝から始めて秦・漢に及び、これを『太史公記』とした。のちに中書令となり、尊ばれ寵せられて職に就いた。

司馬遷が任安に報じた書

  • 益州刺史の任安が司馬遷に書を送り、賢者を推し士を挙げていないと責めた。司馬遷は返書して述べた。
  • 自分は先人の遺した業のおかげで天子の膝下に職を得て三十余年になる。かつて下大夫の列に加わり、外庭の末席で議に連なったが、綱紀を引き締め思慮を尽くすことはできなかった。いま身を損なわれ、卑しい者の間にあって、何を言えようか。
  • 昔、衛の霊公が宦官の雍渠と同車したので孔子は陳へ去り、商鞅が景監の縁で謁見したので趙良は寒心し、童子が陪乗したので袁絲は顔色を変えた。刑余の者が関わることは古来恥とされてきた。どうして刀鋸を受けた者に天下の豪俊を推挙させられようか。
  • 自分は若くして束縛されぬ気概を負いながら、成長しても郷里の評判はなく、幸いにわずかな技をもって宮中に出入りしたが、そこで大きな過ちに遭った。
  • 自分と李陵とは進退の道が違い、もともと親しくはなかった。だがその人となりを見るに、親に孝、士に信、財に清廉、取捨に義があり、常に身を顧みず国家の急に殉ずることを思っていた。国士の風がある人物だと考えていた。万に一つも生き延びる望みのない道を選んで公の難に赴いたのは、それだけでも非凡なことである。ところが一度の失敗で、身を全うし妻子を守るだけの臣たちが、こぞってその短所を言い立てた。自分はまことに心を痛めた。
  • そもそも李陵は五千に満たぬ歩兵を率いて戎馬の地に深く踏み入り、王庭にまで足を運び、虎口に餌を垂らすように強い胡に真っ向から挑み、億万の軍を挫いた。敵は死者を救い傷者を扶けるのに手が回らず、弓を引く民をこぞって一国あげて攻めた。千里を転戦して矢は尽き道は窮まり、援軍は来ず、士卒の死傷は積み重なった。それでも李陵が一声かければ軍は奮い立ち、兵は涙を流し血をすすり、空の弓を張って白刃を冒し、北に向かって死を争った。古の名将でもこれに勝る者は見ない。身は敗れたとはいえ、その打ち破った戦果は天下に功として示すに足る。
  • 自分は、李陵が死なずにいるのは本当に機会を得て漢に報いようとしてのことだと考えた。当時、主上は李陵の敗報を聞いて食事も進まず、政務を聴いても晴れず、憂え恐れてどうしてよいか分からぬご様子だった。自分は身の程もわきまえず、拙い誠意を尽くそうとしてこの考えを述べ、主上のお心を広げたいと思ったのである。
  • ところが主上は、自分が貳師を貶めて李陵の弁護をしたと受け取り、獄吏に下された。ひたむきな忠は最後まで明らかにできなかった。身は木石ではないのに、ただ法吏だけを相手とし、深く牢獄の中に沈められて、誰に訴えられよう。
  • 聞くところでは、最上は先祖を辱めぬこと、次は身を辱めぬこと、次は容色を辱めぬこと、次は言葉を辱めぬことだという。奴僕や婢妾でさえ自ら決することができる。それなのに自分が恥を忍んで生き永らえ、身を糞土の中に沈めても辞さないのは、心中にまだ尽くしていないことがあり、世を去って後世に名が伝わらぬのを憾むからである。
  • 昔、西伯は拘われて『周易』を演べ、仲尼は苦境にあって『春秋』を作り、屈原は放逐されて『離騒』を賦し、左丘明は目を失って『国語』があり、孫子は足を切られて兵法を著した。自分も身の程を知らず、拙い言葉に託して、天下に散逸した古い文献を網羅し、天と人の際を究め、古今の変に通じ、一家の言を成そうとしている。まことにこの書を著して名山に蔵し、後の人に伝えられるなら、たとえ万度殺されようと悔いはない、と。
  • 『太史公記』は全百三十篇、五十余万言である。司馬遷の父の司馬談もまた太史公であった。自序に、その先祖は重黎の後で、代々天地の官を掌ったとある。

史論(本傳曰)

  • 司馬遷は『左氏春秋』『国語』に拠り、『世家』『戦国策』を採り、『楚漢春秋』でその後の事を接いで、大漢に至った。秦・漢のことを述べるのは詳しい。
  • しかし経伝から採り、諸家に散らばる事柄をまとめる点では粗略なところが多く、食い違いもある。また是非の判断が聖人と大いに食い違う。大道を論ずれば黄老を先にして六経を後にし、遊俠を序すれば処士を退けて姦雄を進め、貨殖を述べれば不正な利を尊んで貧賤を恥とする。これがその欠点である。
  • とはいえ劉向や揚雄は群書を極めた人だが、いずれも司馬遷には良史の才があると称え、事を序するのに巧みで、筋道が立って華美でなく、質朴で野卑でなく、文は率直、事実は確かで、美点を虚飾せず悪も隠さない点に感服した。だからこれを実録と称するのである。

群盗の討伐

  • 泰山・琅邪の群盗の徐勃らが山に拠って城を攻め、道路を断った。直指使者の暴勝之らを遣わし、繍衣をまとい斧鉞を持たせて手分けして追捕させた。刺史・郡守以下はみな誅に伏した。