大宛の平定
- 春正月、貳師将軍李広利が大宛王の首を斬り、汗血馬を得た。
- はじめ李広利は騎兵六千と歩兵数万を率いて貳師城の下に至り、良馬を取ろうとした。西へ郁夷城に至るまで、道筋の小国はみな城を閉ざして食糧を出そうとせず、食糧が尽きて引き返した。往復二年、燉煌に着いたとき兵は十のうち二、三しか残っていなかった。上書して撤兵を請うと武帝は激怒し、さらに兵卒六万人を動員した。輜重の従者は数に入れず、牛十万頭、馬二万頭、驢馬・騾馬・駱駝は十万を数え、大量の糧食を運んで軍を支えたので、天下は騒然となった。
- 李広利が進軍すると、道筋の小国はみな出迎えて糧食を供した。まっすぐ大宛城に至って三十余日包囲すると、大宛の貴人たちが王の母寮を殺してその首を差し出し、食糧を出して漢軍に供し、良馬をすべて出した。漢は良馬十匹、中等の馬三千余匹を選び取り、大宛の貴人の妹察を王に立てて盟約を結び、引き揚げた。
- 通過した小国はみな子弟を遣わして従わせ、朝見して献上させ、そのまま人質とした。
- 玉門関に帰り着くまでに死者は一万余人、馬は数千匹に上った。行軍中の食糧不足と戦死が非常に多かったのは、将吏が貪欲で士卒を惜しまなかったためである。
- 武帝は万里の遠征であることを考えてその過失を問わず、李広利を海西侯に封じた。騎士の趙弟は郁城王を殺した功で新畤侯に封ぜられた。九卿に三人、二千石に数百人、千戸以下に千余人が取り立てられた。
李夫人
- 李広利は李夫人の兄である。李広利の弟の李延年は音楽の才があり歌舞に巧みで、武帝はこれを愛して新しい調べや変奏を作らせ、聞く者はみな感動した。李夫人もまた舞に巧みで、たいそう美しく寵愛された。
- 李夫人が重病になったとき、武帝は自ら見舞った。夫人は布団をかぶったまま謝して言った。「妾は、婦人は容貌を整えずには君父に見えぬと聞いております。だらしない姿でお目にかかることはできません」と。
- 武帝が「夫人の病は重く、起てまい。私に会って兄弟のことを託すべきではないか。それとも千斤を賜り、兄弟に高い官を与えようか」と言うと、李夫人は「高い官を与えるかどうかは陛下のお心次第で、一度会うかどうかによるものではありません」と答えた。武帝が強いて会おうとすると、夫人は壁のほうへ向き直り、すすり泣いて二度と口を利かなかった。武帝は不快になって立ち去った。
- 姉妹が咎めて「せっかくお会いして兄弟を託さないとは。なぜあれほど陛下のご機嫌を損ねたのか」と言うと、李夫人は答えた。「陛下にお会いしなかったのは、まさに兄弟を深く託すためです。色をもって人に仕える者は、色が衰えれば愛も薄れ、愛が薄れれば恩も絶えます。陛下が私に執着しておられるのは、日ごろの容貌のゆえです。いま顔かたちの崩れた私を見れば、きっと嫌って捨てるお気持ちになるでしょう。それでどうして私を思い出し、兄弟を憐れんで引き立ててくださいましょうか」と。
- 李夫人が没すると、武帝は手厚い礼で葬り、その姿を甘泉宮に描かせ、兄弟を重んじた。李広利は将軍、李延年は協律都尉となった。
- 武帝は李夫人を思い続けた。方士の少翁が「その霊を招けます」と言い、夜に燭を張って帷幄を設け、酒食を並べ、武帝を別の帷の中に居させた。すると李夫人によく似た美しい女が遠くに見え、帳に戻って座ったが、ぼんやりとしてそばで見ることはできなかった。
天馬と西域への使者
- はじめ武帝が讖書を開いたところ「神馬はまさに西北より来たる」とあった。のちに烏孫の良馬を得て「天馬」と名づけた。さらに大宛の馬を得ると、その馬は血の汗をかき、天馬の子孫だというので「天馬」と名づけ直し、烏孫の馬は「西北極馬」と改名した。
- 武帝は大宛の馬を大いに好み、使者を送るたびに道中で使節が互いに見えるほど絶えず、おおむね十組、多いもので数百人、少ないもので百余人ずつであった。一年のうちに多い年は十余組、少ない年でも五、六組を出し、遠い所へは八、九年、近い所でも五、六年かけて帰った。
- 使節は略奪や物を損なうことを免れず、また使者が趣旨を外せば重罪に問われて怒らせ、そのうえで罪を贖うためにまた使者を志願させたので、使節は際限なく出され、彼らは軽々しく法を犯した。官吏や民を募って自ら申し出させ、素性を問わず皆を派遣したので、こうして漢の使者は黄河の源まで極めた。
- 外国の朝貢が相次いだ。武帝は外国の客をことごとく従えて巡行し、海上に至った。人の多い大きな都市を通るときは、名のある人や豊かな府庫を見せ、賞賜を厚くし、角抵の戯を催して奇術を演じ、酒の池と肉の林を設けて見せつけた。
その他
- 秋、明光宮を起工した。
- 冬、回中に行幸した。
- 弘農都尉の役所を武関に移し、出入りする者に税を課して吏卒の食に充てた。
- 大宛が破れて外国が震え恐れると、武帝はさらに匈奴を追い詰めようとして詔を下した。高皇帝は朕に平城の憂いを遺され、高后のときには単于の書は無礼きわまるものだった。斉の桓公は九世の讎を報い、『春秋』はこれを称えた、と。こうして再び匈奴を図ることとした。
- 中郎将の蘇武を匈奴に遣わしたが、匈奴は蘇武を抑留して帰さなかった。蘇武はかたく漢の節を守って降ろうとしなかった。