辺境巡行と単于への使者
- 冬十月、武帝は自ら軍を率いて辺境を巡り、十二部の将軍を置いて十八万騎を統率した。旌旗は連なって十余里に及んだ。上郡・西河・五原を経て長安城の北に出、単于台に登って朔方を望み、北海に臨んで匈奴に威を示した。
- 使者の邴吉を遣わして烏維単于に告げさせた。「南越王の首はすでに漢に懸けられている。いま天子は自ら軍を率いて辺境で待っておられる。単于に戦う気があるなら早く来い。できぬなら臣従せよ。なぜ漠北の寒く苦しい地に逃げ隠れて単于の墓場としているのか」と。
- 単于は怒って邴吉を捕らえ、北海のほとりに移したが、ついに出撃する勇気はなかった。
- 武帝は帰路、泰山で黄帝を祀り、それから甘泉に戻った。
- 東越は王の余善を殺して降ったので、その民を江淮の間に移し、その地を空にした。
封禅
- 春正月、緱氏に行幸し、崇高山に登った。「万歳」と唱える声を三度聞き、群臣も吏卒もみな聞いたと言った。そこで太室を封じて三百戸を奉邑とし、その山の木を伐ることを民に禁じ、その民の賦役を免除した。
- そのまま東へ海上を巡った。御史大夫の卜式は太子太傅に降格され、内史の倪寛が御史大夫となった。
- 夏四月癸卯、武帝はついに太岳に登って封禅を行った。
- はじめ封禅を議したとき、答申した儒者は五十余人あったが定まらなかった。これに先立ち司馬相如が病で世を去るとき、封禅について遺書を残していた。武帝は内史の倪寛に諮った。
- 倪寛は答えた。「陛下は自ら聖徳を発揮して万民を統べ束ね、天地を宗として祀り、百神に礼を捧げてこられました。誠心の向かうところ、必ず兆しが報いとして現れ、天地はともに応じて瑞祥の符が明らかです。太山を封じ梁父で禅を行い、姓を明らかにし瑞を考えるのは、帝王の盛んな儀礼です。大事を挙げようとして数年ものんびり構え、群臣に各自案を出させても結局まとまりません。ただ天子だけが中和の極を立て、条理を総べ、金の声で始めて玉の音で結ぶように整え、天の慶びに順って成し遂げ、万世の基を垂れることができるのです」と。
- そこで武帝は自ら礼儀を定め、儒術を採り入れて体裁を整えた。倪寛を御史大夫に任じ、封禅に随行させた。
- 太山から再び東へ海に巡り、竭石に至り、遼西から北辺・九原を経て甘泉に帰った。
褚大通と倪寛
- はじめ梁の相に褚大通という者があり、五経に通じて博士となっていた。当時、倪寛はその弟子だった。
- 御史大夫の欠が出て武帝が褚大通を召したとき、彼は自分が御史大夫になれるものと思っていた。洛陽に着いて倪寛が任じられたと聞き、褚大通は大笑いした。だが到着して武帝の前で倪寛と封禅を議したところ、褚大通は倪寛に及ばず、退いて「陛下はまことに人を見抜かれる」と言って服した。
恩賜
- 太山と通過した地の、七十歳以上の民および身寄りのない老人に絹帛を賜った。
- 秋、租税と人頭税を免除した。天下の民に爵を賜り、女子には百戸ごとに牛と酒を賜った。
- 五月、甘泉に帰った。
- 秋、東井に彗星が現れ、また三台にも現れた。『本志』はこれを後の衛太子の乱の兆しとする。
- 斉王の劉閎が薨去し、子がないので国を除いた。