皮幣・白金・五銖銭
- 春、担当官が、関東の流民が総計七十二万五千人に上り、官には衣食を与えて賑給する費用が足りないと言上し、銀と錫を集め、白い鹿の皮で白金と皮幣を造って費用に充てたいと請うた。
- 当時、禁苑に白鹿がおり、少府には銀・錫が多かった。そこで白鹿の皮一尺四方に彩り縁取りをして皮幣とし、額面三十万とした。王侯や宗室は朝覲の際に必ず皮幣の上に璧を載せて献じなければ儀を行えないこととした。
- また銀と錫で白金三品を造った。第一は重さ八両の円形で、竜の文様があり白撰と名づけ、額面三千。第二はやや小さい方形で、馬の文様があり額面五百。第三はさらに小さい楕円形で、亀の文様があり額面三百。
- 半両銭を鋳つぶして五銖銭に改鋳し、表示どおりの重さとした。私鋳や粗悪貨幣を作る罪は死刑とした。
塩鉄と均輸・平準
- 孔僅が大司農丞となって塩と鉄を管掌した。桑弘羊は洛陽の商人の子で、暗算に長けたため十三歳で侍中となった。利を論ずるにあたっては微細な点まで刻み込むように精密で、緡銭および車船への課税がここに始まった。
- のちに桑弘羊は、大司農の部丞を数十人置いて郡国に分駐させ、それぞれ均輸・塩鉄の官を置くことを請うた。遠方には各地の産物や商人が売買する品をもって賦とし、それを相互に調整して輸送させる。さらに京師に平準官を置いて天下から送られる諸物をまとめて受け取り、官が天下の物資をすべて手中に収めて、値が高ければ売り、安ければ買う。こうすれば大商人は暴利を得られず、物価は本来の水準に戻って高騰しない。天下の物価を抑えるので平準と名づけた。
- また、民が粟を納めて官職を得たり、罪人が粟で死罪を贖ったり、粟を納めて官吏となったりできるようにし、それぞれ等級を設けた。
- こうして民の賦を増やさずに国の費用は豊かになったので、桑弘羊に左庶長の爵と黄金二百斤を賜った。
- たまたま大旱魃となり、武帝が百官に雨乞いをさせたとき、太子傅の卜式が武帝に言った。「官は租税で衣食すべきものです。いま桑弘羊は役人を市の店に座らせて物を売り利を求めています。桑弘羊を釜茹でにすれば、天は雨を降らすでしょう」と。
董仲舒の献策
- このころ董仲舒が武帝に説いた。古代の課税は十分の一を超えず、民を使役するのも年に三日を超えなかったので、民の財は内には老を養って孝を尽くすに足り、外には上に仕えて税を納めるに足り、下には妻子を養うに足りた。だから民は喜んで上に従った。
- 秦はそうではなかった。商鞅の法を用いて帝王の道を改め、井田の制を廃したため、富者の田は畦道づたいに連なり、貧者には錐を立てる土地もなくなった。人は川沢の利を独占し山林の富を経営し、放埓に制度を越えて、邑には君主のような尊貴な者がおり、里には王侯のような富者がいた。小民が困窮しないはずがない。
- そこへ月ごとの兵役、守備の勤め、年々の力役が加わり、古の四十倍の負担となり、田税と人頭税は古の二十倍となった。豪族の田を耕す者は収穫の五割を取られ、常に牛馬の着るような衣を着、犬豚の食うようなものを食った。さらに貪欲で暴虐な役人が刑戮をほしいままにし、民は生きるすべを失って山林に逃げ込み、みな盗賊となり、裁かれる事件は年に十万を数えた。
- 漢はこれを踏襲したまま改めていない。古の井田の法をにわかに行うのは難しいが、少しでも古に近づけるべきである。民の占有できる田を制限して兼併の道を塞ぎ、塩と鉄はすべて民に返し、奴婢を廃して主人が勝手に殺す権威を除き、賦斂を軽くし徭役を減らして民を寛がせる。そうしてこそ治まるのである、と。
- この意見は実行されなかった。
漠北の決戦
- 東北に彗星が現れた。夏、西北に長星が現れた。
- 大将軍衛青が四人の将軍を率いて定襄から、将軍霍去病が別路から出撃し、それぞれ一万余騎、歩兵は数十万であった。
- 衛青は漠北に至って単于を包囲し、一万九千級を斬った。単于は逃走し、寘顔山まで追ってから引き返した。
- 霍去病は左賢王と戦って七万余級を斬首・捕虜とし、狼居胥山で封禅の祭りを行って帰還した。
- 前将軍の李広と右将軍の趙食其はいずれも期日に遅れ、李広は自殺し、趙食其は贖罪して死を免れた。
李広の死とその生涯
- 李広は大将軍と別の道を行き、道に迷って期日に遅れた。大将軍が長史を遣わして責め問い、幕府に出頭して答弁せよと命じた。李広は配下に言った。「わしは髪を結って以来、匈奴と大小七十余度戦ってきた。いま道に迷って遅れたのは天意ではないか。それにわしはもう六十を過ぎている。今さら刀筆の吏に取り調べられるのは我慢ならぬ」と。そして自ら首を刎ねて死んだ。民は知る者も知らぬ者もみな涙を流した。
- 李広ははじめ文帝の時に良家の子として従軍した。文帝はその才を非凡と見て「李広が高帝の時代に生まれ合わせていたら、万戸侯くらい何ほどのことがあろう」と言った。呉楚が反乱したときには昌邑の下で戦って名を挙げ、のち上郡太守となった。
- 匈奴が上郡に侵入したとき、武帝は寵臣の宦官を遣わして李広を助けさせた。その宦官が数十騎を率いて出たところ、匈奴三人と出会って戦い、射られて傷を負い、従う騎兵はほとんど殺された。逃げ帰って李広に告げると、李広は「それは間違いなく匈奴の鵰射ちだ」と言い、百余騎を率いて追い、二人を射殺し一人を生け捕りにした。
- そこへ匈奴の数千騎が現れ、李広らを誘いの騎兵だと思って驚き、兵を出して山上に陣を敷いた。李広は真っ直ぐ進んで匈奴の二里手前で止まり、全員に馬を下りて鞍を外させた。白馬に乗った匈奴の将が出て兵を指揮したので、李広はこれを射殺し、また戻って鞍を外し馬を放した。匈奴は不審に思ってついに攻めかからず、日が暮れると漢の伏兵があると考えて夜のうちに逃げ去った。
- 李広はかつて狩りで草むらの石を伏せた虎と見て射たところ、矢は羽まで石に埋まった。よく見れば石だった。別の日に射てみたが、二度と刺さらなかった。
- 李広の軍の吏や兵には軍功で侯に封ぜられた者が多かったが、李広はついに封ぜられなかった。かつて西羌が反乱したとき、李広は八百余人を降伏させておきながら同じ日に全員を殺した。望気の術者の王朔は「禍は降伏した者を殺すことより大きいものはない。将軍が侯に封ぜられないのはそのためです」と言った。