- 春正月、河間王德が薨去し、謚を獻王とした。德は学を好み礼楽を修め、とっさの間にも必ず儒者のように振る舞った。道術の士が四方から至り、古文の書がみな得られた。これに先立って入朝したとき、天子が三十余事を策問すると、ことごとく道術に基づいて答え、文は簡潔で趣旨は明らかであった。天子は甚だ重んじた。
西南夷の開通
- 夏、巴蜀の民を発して南夷への道を開いた。
- 南夷の道の君長は十数を数え、夜郎が最大である。その西の靡漠の類も十数あり、靡漠が最大である。靡漠から北は君長十数、卬都が最大で、みな椎髻を結い田を耕し、集落を持つ。その外、西は桐師から東は葉榆までを越雋・昆明といい、みな編髪で家畜を追って移り住み、定住せず、大きな君長もない。その地は数千里四方に及ぶ。越雋から東北は君長十数、莋都が最大。莋都から東北は君長十数、冉駹が最大で、その俗は土着の者も移住する者もある。冉駹から東北は君長十数、白馬が最大である。これらはみな巴蜀の外の西南夷である。
- はじめ楚の莊王が将軍の莊蹻に江を遡って黔中以南から西へ地を略取させた。莊蹻は靡漠に至った。地は三百里四方、そのかたわらの平地は肥沃で数千里に及ぶ。これを平定したところ、秦が楚の巴と黔中郡を奪って道が塞がり通じなくなった。莊蹻はその衆を率いて靡漠に王となり、服装を変えてその俗に従った。
- 秦の時に一度この諸国に伍人の道を通じ、いくらか長吏を置いたが、漢が興ってみな棄てた。
- 太行の王恢が越を救ったとき、鄱陽令の唐蒙を南越に遣わした。越は唐蒙に枸醤を食べさせた。どこから来たものかと問うと、「西北の牂牁江からだ。江は広さ数千里、鄱禺城の下に出る」と言った。
- 唐蒙は上書して言った。南越の地は東西いずれも一万余里、名は外臣でも実は一州の主である。今、長沙・豫章から往来するには水道が絶えて難しい。ひそかに聞くところでは夜郎の精兵は数十万を数えるという。夜郎から舟を浮かべて牂牁を下り、不意を突けば、越を制する一つの奇計である。夜郎への道を通じて吏を置くべきです、と。天子は許した。
- そこで唐蒙を中郎将に任じ、巴蜀の兵千余人を発し、幣帛を奉じて夜郎侯に会い、威徳を諭して長吏を置いた。近隣の小邑もみな漢の贈る帛を貪り、道は遠く漢が中まで保つことはできまいと思って、いずれも一応は命に従った。
- 司馬相如も西南夷の卭・莋には都を置けると述べた。天子は喜び、相如を中郎将としてその意を諭しに行かせ、みな命に従った。
- のち西南夷がたびたび反し、兵を発し徭役を興して費用が甚だ多くなった。相如はその開通が難しいと知りながら、すでに事業として立てられていたので、巴蜀の人の議論に託して天子を諷し、あわせて使者の趣旨を百姓に宣べるかたちで文を作った。
難蜀父老の文
- 聞くところでは天子の夷狄に対する義は、羈縻して絶やさぬだけだという。今すでに三郡の士を疲れさせ、夜郎への道を通じて二年になるが功は成らず、士卒は疲れ万民は足りない。今また西夷まで手を伸ばせば百姓の力は尽き、事業を終えられぬ恐れがある。これは使者の落ち度である。そもそも卭・莋・西僰の人が中国と並び立たなくなって久しい。仁者も徳で来させられず、強者も力で併せられなかった。思うにできぬことではないか。良民を割いて夷狄に付け、頼みとするところを弊れさせて無用の事に当たる。鄙人は固陋で、その意味がわからない、と父老は言った。
- 使者は答えた。世に非常の人があってはじめて非常の事があり、非常の事があってはじめて非常の功がある。非常とはもとより常人が異とするところである。ゆえに「非常の人には黎民が懼れる。しかしその功が成れば天下は安んずる」という。
- 賢君が位に践むのは、こまごまと縮こまり、文に拘り俗に引かれ、聞き伝えをなぞって当世に喜ばれるためだけであろうか。必ずや崇高な論と宏大な議を立て、業を創り統を垂れて万世の規範とするためである。だからこそ兼ね併せることに心を馳せ、包み容れて、天地に参ずることを勤め思うのである。
- 今、封疆の内、冠帯の輩はみな嘉福を得て遺漏がない。しかし夷狄の異なる俗の国、遥かに隔たった異類の地は、舟車も通じず人跡も稀で、政教は及ばず風化はなお微かである。内に対しては義を犯し礼を侵し、外に対しては邪な行いが横行し、その君を放逐し殺し、君臣は位を易え、尊卑は序を失う。父兄が罪なくして殺され、幼い者は奴虜となって縛られ、泣き叫んで内地に向かって怨んで言う。中国は至って仁であり、徳は洋々として恩は普く、あらゆる品類がその所を楽しまぬものはないと聞く。それなのになぜ我らだけが忘れられているのか、と。彼らは踵を挙げて恩を望むこと、旱に枯れた地が雨を望むようである。上聖の心がどうしてこれを捨て置けよう。
- ゆえに北は師を出して強い胡を討ち、南は使を馳せて剛い越を責めた。四方の人は徳になびき、三方の君は魚鱗のように集まって流れを仰ぎ、号を受けたいと願う者は億を数えた。ゆえに沫水と若水に関を設け、牂牁に境を置き、靈山を鑿ち、孫水の源に橋を架け、道徳の道を創り、仁義の統を垂れた。恩を博くし施しを広くし、遠くを撫し長く駕して、疎く遠い地も閉ざされず、薄暗く昧い所も光明を得るようにする。甲兵をこちらで伏せ、攻伐をあちらで息める。遠近が一体となり中外がともに福を得る。これまた安らかなことではないか。
- 民を溺れる中から拯い、至尊の休徳を奉じ、衰世の凋落を反し、周室の絶えた業を継ぐことは、天子の急務である。百姓は労するとはいえ、どうしてやめられよう。
- まさに泰山の封を増し梁父の事を加え、和鸞を鳴らして雅頌を揚げ、上は五帝に等しく下は三王を超えようとしているのだ。見る者はその趣旨を見ておらず、聴く者はその音を聞いていない。鷦鵬はすでに大空を翔けているのに、網を張る者はなお薮沢を見ている。悲しいことではないか、と。
- この年、また卒一万人を発して鴈門の要害を修めた。
陳皇后の廃位と董偃
- 秋七月、大風が木を抜いた。
- 乙巳、皇后陳氏が廃された。皇后は堂邑侯の陳午の娘である。午は陳嬰の孫にあたる。陳嬰は堂邑侯に封ぜられ、午は長公主嫖を娶った。天子が太子だったとき長公主の力があったので、太后が公主の娘を太子に配した。皇后となってからは驕り恣に権寵をほしいままにし、十余年子がなく、また婦人の媚びる呪術に頼ったので廃された。
- 当時、長公主は寡居して五十余歳であった。董偃という者が十三歳のとき母に従って公主の家に真珠を売りに来た。公主はその美しさを見て邸に留め、外出すれば手綱を取らせ、家に入れば身近に侍らせ、財を散じて士と交わらせた。府中に「董君が使うものは、一日に金百斤、帛千匹に満ちるまでは報告しなくてよい」と命じた。
- その後、公主は病と称し、癒えると天子に見舞いを請うた。これを機に董偃に会わせようとしたのである。天子が「主人公に拝謁したい」と言うと、公主は簪と耳飾りを外して跣で頓首して謝し、董偃を引き合わせた。董偃は緑の幘に碧の腕貫という姿で殿下に伏し、天子は立ち上がって寵遇した。これ以来、董偃の貴寵は天下に知れ渡った。
- のち天子が公主のために宣室で酒宴を設け、謁者に董君を引き入れさせた。侍郎の東方朔は戟を避けて進み出て言った。董偃には斬るべき罪が三つあります。どうして入れましょうか。人臣の身で私に公主に侍る、これが罪の一。男女の礼を破って王制を傷つける、これが罪の二。経学に従わず奢侈と狗馬で主上の欲を煽り、淫の魁首となった、これが罪の三です、と。
- 天子はしばらく黙って「もう酒宴を設けてしまった。後で改めよう」と言った。東方朔は言った。なりません。宣室は先帝の正しき御座所です。法度に適う正しいものでなければ入れてはなりません。淫乱が兆せば篡奪に変わります。竪貂が淫を行って易牙が患いをなし、慶父が誅されて魯国は全うされ、管叔・蔡叔が戮されて周室は安んじられました、と。天子は「よし」と言い、北宮に場を移して董君を引き入れ、東方朔に金三十斤を賜った。
- 董偃の一件以来、諸公主の行いには邪で恣なものが多くなった。天子の妹の子が天子の娘の夷安公主を娶ったが、驕り放埒で罪を犯して死罪となった。左右がとりなしを願うと、天子は涙を流して「先帝の法を廃したら、どんな顔をして郊廟に入れようか」と言い、悲しみに堪えなかった。東方朔が進み出て言った。楽しみが甚だしければ陽が溢れ、悲しみが甚だしければ陰が損なわれると聞きます。聖王が政を行うには、賞は仇讐を避けず、誅は親戚に阿りません。陛下がこれを行われるのは天下の幸いです。臣は死を冒して再拝し、千万歳をお祝い申し上げます、と。
東方朔の諫言
- 天子がかつて東方朔に「私は天下を化したいが、その道はあるか」と問うた。東方朔は答えた。孝文帝は自ら黒い粗絹を着、足には革の履をはき、上書の袋を集めて殿の帷とし、道徳を美とし仁義を基準とされました。それで天下は明らかに大いに化されたのです。今、陛下は苑囿を広げ建章を起こし、左に鳳闕、右に神明台を置き、千門万戸と号し、木や土に緹繡を着せ、犬馬に繢罽を被せ、宮人は瑇瑁の簪を挿し珠璣を垂れ、戯車を設けて馳逐を教え、文采を飾って奇怪をなし、千石の鐘を撞き雷霆のような鼓を打ち、俳優を演じさせ鄭の女を舞わせておられます。上がこのように淫侈でありながら民に奢らせまいとするのは、難しいことです。陛下がまことに臣朔の計を用いられ、甲乙の帳を壊して四方に通じる大路で焼き、走る馬を退けてもう用いぬことを示されれば、堯舜の隆盛に比肩する治が得られましょう、と。
- 東方朔はまた上書して、自分だけ大官を得られぬことを訴え、あわせて農戦によって国を強くする計を数万言にわたって述べた。もっぱら商鞅・韓非の語を用い、文の趣旨は放縦で、いくぶんおどけも交えていたので、ついに用いられなかった。
- 八月、螟虫の害があった。
公孫弘の対策
- 賢良文学を徴し、天子が策問して言った。上古の至治では、衣冠に絵を描き章服を異にするだけで民は罪を犯さず、陰陽は和し風雨は時に従い、父は子を哭さず兄は弟を哭さなかったと聞く。人の足跡の及ぶ限り、跛行するもの喙で息するものまで、みなその宜しきを得た。今、何を修めればこれに至れるのか。仁・義・礼・智の四つをどう施すべきか。天と人の符、廃興はどうなのか、と。
- 菑川の人の公孫弘が対えた。厚い賞と重い刑は善を勧め非を禁ずるに足りない。必要なのは信だけである。ゆえに能に応じて官に任ずれば職分は治まり、無用の言を去れば事の実情がわかり、無用の器を作らなければ賦斂は省け、民の時を奪わず民の力を妨げなければ百姓は富み、徳ある者が進み徳なき者が退けば朝廷は明るく、功ある者が上り功なき者が下れば群臣は喜び、罰が罪に当たれば姦邪は止み、賞が功に当たれば群下は励む。この八つが治の本である。
- 民を養う者は、これを禁ずれば争わず、これを治めれば怨まず、礼があれば暴れず、これを愛すれば上に親しむ。これが天下を持つ者の急務である。罰が義に背かなければ民は服して離れず、和が礼を遠ざけなければ民は親しんで侮らない。衣冠に絵を描き章服を異にするだけで民が犯さなかったのは、この道が平素から行われていたからである。
- 気が同じければ相従い、声が比なえば相応ずると聞く。人主が上で徳を和すれば万類は下で和洽する。心が和せば気が和し、気が和せば形が和し、形が和せば声が和し、声が和せば天地の和が応ずる。ゆえに陰陽は和し風雨は時に従い、甘露が降り五穀は実り、山は禿げず沢は涸れず、嘉禾が興り朱草が生える。これが和の至りである。形が和せば病がなく、病がなければ人を失わない。ゆえに父は子を哭さず兄は弟を哭さない。遠方の民や物まで化を蒙らぬものはない。これが和の極みである。
- 利を致し害を除き、愛憎に私がないのを仁という。是非を明らかにし可否を立てるのを義という。進退に度があり尊卑に分があるのを礼という。殺生の柄を握り塞がった路を通ずるのを権という。軽重の数を審らかにし得失の道を論じ、遠近の情と偽を必ず上に見えるようにするのを智術という。この四つは治の大いなる用である。その要術を得れば天下は安楽で、法は設けられても用いられない。その術を得なければ主は上で昏く、官は下で乱れる。ゆえに天に私の親しみはなく、これに順えば和が起こり、これに逆らえば害が生じる。これが天人の符である、と。
- 当時、対策した者は百余人であった。太常は公孫弘の対策を下位と奏したが、天子は公孫弘の対を第一に抜擢した。召し入れて見ると容貌が甚だ立派だったので、博士に任じて金馬門で詔を待たせた。
- 公孫弘はさらに上疏して言った。先の世の吏は正しかったので民は篤かった。今の世の吏は邪なので民は薄い。政は弊れて行われず、令は倦んで聴かれない。邪な吏が弊れた政を行い、倦んだ令を用いて薄い民を治めても治まらない。これが政の失われるゆえんである。周公旦が天下を治め、一年で変わり二年で化し五年で定まったと聞く。ただ下の者が志すところによる、と。
- 天子は書で答え、公孫弘に問うた。周公の治を称えるが、朕は自らを周公と比べてどちらが賢明と思うか、と。答えて言った。臣は愚かで浅薄、周公に比べるなど恐れ多い。とはいえ愚かな心にも治道のゆえんははっきりと見えます。虎豹や牛馬など制しがたい禽獣も、教え馴らして習わせれば人の言うままになります。曲がった木を矯めるのに何日もかからず、金石を溶かすのに何か月もかからぬと聞きます。人が利害好悪について、どうして禽獣や木石の類に比べられましょう。一年で変わったというのを、臣弘は常々遅すぎると思っておりました、と。天子はその言を嘉し、際立ったものとした。