前漢紀前漢孝武皇帝紀二 四年 前131年

竇嬰と灌夫

  • 冬十二月、魏其侯の竇嬰が棄市された。
  • はじめ竇嬰が貴重されていた頃、田蚡は常にこれに仕えていた。竇嬰が失脚し田蚡が権を握ると、田蚡は竇嬰に田を求めた。竇嬰は与えず、「老いた僕は棄てられた身だが、権勢で奪ってよいものか」と言った。もと太僕の穎川の灌夫は竇嬰と親しく、やはり田蚡に怒った。田蚡はこれを聞いて「私は魏其侯に仕えて何事も従ってきたのに、数頃の田を惜しむのか。しかも灌夫に何の関わりがあるのか」と言った。灌夫の家は穎川にあって横暴が甚だしかったので、田蚡は灌夫の家の事を調べるよう請うた。灌夫も田蚡の秘密を握っており、賓客が仲裁して双方とも止めた。
  • 田蚡が燕王の娘を夫人に迎えたとき、太后が詔して列侯と宗室はみな祝いに行かせた。竇嬰は灌夫を訪ねてともに行こうとした。灌夫は行きたがらなかったが、竇嬰が「事はもう和解した」と言い、強く請うので同行した。
  • 灌夫が酒を注いで回り田蚡のところに来ると、田蚡は「満杯では受けられぬ」と言った。灌夫は怒った。田蚡は笑って「将軍は人を責めなさる」と言い、灌夫は矛を収めた。
  • 次に汝陰侯の灌賢のところに至ると、灌賢は程不識と耳打ちしていて杯を受けなかった。灌夫は怒りを発して灌賢と程不識を罵った。田蚡は灌夫に「程と李はともに東西の衛尉である。今、衆前で程将軍を辱めるのは、李将軍の面目も考えぬのか」と言った。李将軍とは李廣のことで、灌夫が日ごろ敬っていた人である。灌夫は「今日は首を斬られ胸を貫かれてもかまわぬ。程だの李だの知ったことか」と言った。
  • 座は次第に散じた。田蚡は騎士に灌夫を留めさせた。ある者が灌夫の頭を押さえて謝らせようとしたが、灌夫は怒って謝らなかった。田蚡は騎士に合図して灌夫を縛らせ、御史を召して「今日、宗室を召したのは詔によるものだ。灌夫は座を罵った、不敬である」と言い、居室に繋いで以前の事を調べさせ、吏を分けて灌夫の一族を捕らえ、みな棄市とした。
  • 竇嬰は灌夫を救おうとした。夫人が止めたが、竇嬰は「灌仲孺を死なせて自分だけ生きるわけにはいかぬ」と言い、家人を帰らせてひそかに家を出て上書し、召し出されて灌夫の事は誅するに足らぬと詳しく述べた。天子は赦そうとしたが、田蚡が強く争った。
  • 天子は両廷尉にその事を弁じさせた。御史大夫の韓安国は両方に従い、主爵都尉の汲黯は竇嬰が正しいとし、内史の鄭當時も竇嬰を正しいとしたが、言葉を貫かなかった。他に敢えて答える者はなかった。天子は怒って内史に言った。公は平生しばしば魏其侯と武安侯の長短を言っていた。今日、廷議になると縮こまって轅の下の子馬のようだ。お前たちまとめて斬るぞ、と。そして席を立った。
  • 太后は怒って食を絶ち、「私が生きているうちから人が皆こうやって私の兄弟を踏みつけにする。私が死んだ後は皆が魚肉にされるのか」と言った。天子は御史に竇嬰を軽く責めさせ、弾劾して都司空に繋いだ。竇嬰は兄の子に上書させ、再び召見されることを願った。
  • はじめ景帝の時、竇嬰は「事に不都合があれば、その都度便宜によって上書せよ」という遺詔を受けていた。ところが尚書と大行の記録を調べると遺詔がなく、詔書は竇嬰の家にだけ蔵されていた。丞相は竇嬰が先帝の令を偽ったとして弾劾を奏し、ついに棄市された。灌氏も族滅された。

田蚡の死

  • 春三月、丞相の田蚡が薨去した。田蚡は病んで全身が痛み、誰かに打たれているようで、「罪に服する、罪に服する」と叫んだ。天子が鬼を見る者に見させると、「魏其侯と灌夫が手を組んで笞打っています」と言った。
  • 田蚡ははじめ身を折って士を好み、名誉を得ようとした。奏事のたびに話が日を移すほど長く、言うことはみな聴かれた。推薦した人が家から起こって二千石に至ることもあり、天子は「君の吏の任命は終わったか。私も吏を任命したいのだが」と言った。政を執ることこのようであった。
  • 後には甚だ驕り恣となり、考工の土地を求めて邸宅を広げようとした。天子は怒って「いっそ武庫も取ったらどうだ」と言った。田蚡が邸を営むと、その甲第と田園は最も肥沃で、前堂には鐘鼓を並べ曲旃を立て、後室の婦女は百を数え、珍宝や玩好、犬馬は数え切れなかった。
  • 淮南王安が入朝したとき、田蚡は太尉として覇上に迎え、安に言った。上にはまだ太子がおられない。大王は最も賢明で高帝の孫であられる。もし一朝にして崩御されたら、大王でなくて誰が立ちましょう、と。淮南王は大いに喜び、田蚡に厚く贈った。
  • 灌夫の事のとき天子は田蚡を正しいとしなかったが、太后のために意を屈した。のち淮南王の事を聞いて、天子は「もし武安侯が生きていたら族滅していた」と言った。
  • はじめ魏其侯が権を執っていた頃は賓客が甚だ盛んであったが、失脚すると客はみな武安侯に移った。ただ灌夫だけが去らなかった。
  • はじめ灌夫の父の張孟は穎陰侯の灌嬰の舎人となって寵を得、灌嬰が引き立てて二千石に至ったので灌氏の姓を名乗った。呉楚が反したとき、張孟は校尉として戦死した。当時、灌夫は従軍しており、遺骸とともに帰るのを拒み、呉王か将軍の首を取って父の仇に報いたいと願い出た。そこで甲を着け戟を持ち、軍中の壮士で親しく従いたいという者数十人を募った。しかし壁門を出ると誰も進もうとせず、ただ二人と騎奴十余人だけが呉軍の麾下に駆け入り、数十人を殺傷したが、それ以上進めず、たった一騎とともに帰った。灌夫は身に十余か所の大傷を負ってほとんど死にかけた。傷が少し癒えるとまた出撃を願ったので、太尉が強く留めてやめさせた。これによって勇義が天下に聞こえた。

その他

  • 夏四月、霜が降りて草を枯らした。
  • 五月、地震があり、天下に赦を行った。丁巳、平棘侯の薛澤が丞相となり、御史大夫の韓安国が免ぜられた。
  • 秋九月、中尉の張歐が御史大夫となった。仁厚をもって尊重された。