- 春、黄河が平原で決壊して溢れ、大飢饉となって人が人を食った。茂陵に移された者には一戸につき銭二十万と田二頃を賜った。はじめて便門橋を作った。
- 秋七月、西北に彗星が現れた。濟北王明が太傅と中尉を殺した罪で廃され、房陵に遷された。
東甌の救援
- 閩越が東甌を囲み、急を告げてきた。天子が太尉の武安侯田蚡に問うと、田蚡は、越人が互いに攻めるのは常のことであり、また彼らはたびたび去就を変える、中国を煩わすには及ばない、秦の時から棄てて内属させていない、と述べた。
- 詔があって太中大夫の嚴助が田蚡を難詰して言った。ただ力が救うに足りず徳が覆うに足りぬことを憂えるべきで、まことに能うなら何ゆえ棄てるのか。しかも秦の時は咸陽さえ棄てたのであって、越どころではない。今、小国が窮迫して天子に急を告げているのに、天子が救えないなら、どこに頼れというのか、と。閩越は退いた。
- 九月丙子の晦、日食があった。
上林苑の拡張と東方朔
- 上林苑を起工した。当時、天子は太中大夫の吾丘壽王に、盩厔以東・宜春以西、北は阿城に至り南山に接する土地の台帳と面積・地価を調べさせ、これを召し上げて苑にしようとした。
- 侍郎の東方朔が諫めて言った。謙遜で静かに慎めば天は福で応じ、驕り奢れば天は禍で応じると聞く。酆と鎬の間は土膏と呼ばれ、一畝の値は金一斤である。これを苑にすれば、上は国の用度を乏しくし、下は農桑の業を奪う。これが不可の一。荊棘を茂らせ虎狼の巣を作り、民の墓を壊し民家を取り払えば、幼い者は故郷を思い、老いた者は涙を流して悲しむ。これが不可の二。切り開いて営み、垣を巡らして囲い、東西に馳騎を逐い南北に車輦を走らせれば、深い溝や大きな渠ができて険阻の危険が生じる。これが不可の三。苑囿の大きさに努めて農時を顧みないのは、国を強くし民を富ませる道ではない。殷は九市の宮を作って諸侯が叛き、楚の霊王は章華の台を起こして楚人が離散し、秦は阿房の殿を興して天下が乱れた、と。
- 天子は金百斤を賜って太中大夫に任じた。しかしそれでも上林苑は起工された。
東方朔の人となり
- 東方朔は字を曼倩といい、平原の人である。学を好み滑稽で知られた。二十三歳で郎中となり、上書して自ら公車で詔を待つ身となったが、俸禄が薄かった。
- 東方朔は侏儒たちに「陛下はお前たちを皆殺しにするつもりだ」と言った。侏儒たちは大いに恐れ、みな頭を打ちつけて泣き叫んだ。天子が東方朔を召して問うと、こう答えた。侏儒は身の丈三尺、臣朔は九尺三寸。俸禄は同額です。侏儒は満腹で死にそうで、臣朔は飢えて死にそうです。臣の言が用いられるなら禄を違えるべきですし、用いられないなら罷めさせて、ただいたずらに長安の米を消費させないでいただきたい、と。天子は大笑いし、金馬門で詔を待たせ、次第に近づけた。
- 天子が守宮(やもり)を盆の下に置き、筮者に当てさせたが誰も当てられなかった。東方朔は自ら卦を布いて当てようと願い出て言った。竜としようにも角がなく、蛇としようにも足がある。ちょろちょろと動いてよく壁を伝う。これは守宮でなければ蜥蜴でしょう、と。天子は「よし」と言い、また他の物を当てさせ、続けて当たるたびに帛を賜った。
- 当時寵愛されていた倡優の郭舎人らが「朔はまぐれで当てただけだ」と言い、樹上の寄生を盆の中に入れて覆い、「朔がこれを当てたら私を百たたきにせよ、当てられなければ私に帛を賜れ」と言った。東方朔は「これは窶数(食器を載せる藁の輪)だ」と言った。舎人が「やはり朔は当てられなかった」と言うと、東方朔は「湿った肉は膾、乾いた肉は脯、樹の上なら寄生、盆の下なら窶数だ」と言い、舎人を百たたきにした。
- 東方朔は問いに応じてよどみなく答え、機転が鋭く、文章と辞令は尽きることがなかった。天子はやや倡優のように扱ったが、東方朔は時に忠直の言を発して極諫し、その点でもまた際立っていた。
- 東方朔は、客が自分を難詰する形を借りて、地位の低いことを自ら慰め諭す文を作った。また「非有先生の論」を設けた。その辞に言う。
非有先生の論
- 非有先生が呉に仕えて三年、黙して何も言わなかった。呉王が怪しんで「もう語ってよいぞ」と言うと、先生は伏して唯々と答えるばかり。王が重ねて「語ってよい」と言うと、先生は「ああ、語ってよいものでしょうか。語ることは容易ではありません」と言った。
- 王が「なぜそう言うのか。寡人は聴こう」と言うと、先生は答えた。昔、關龍逢は桀に深く諫め、王子比干は紂に直言した。この二臣はいずれも忠を尽くし思いを極め、君の栄光とし君の禍を除こうとした。それでいて無実の誅を受け、天下の笑いものとなった。飛廉と惡來は巧言と口先で身を進め、ひそかに彫琢刻鏤の贅沢を献じて上に取り入り、耳目の欲を快くし、迎合を旨として親近された。だから宗廟は崩れ国家は丘墟となった。
- 身を低くし顔色を和らげ、言葉を控えてへつらい従うのは、結局のところ王上の政治には何の益もない。志士仁人はこれに忍びない。厳然と姿を正し、深く述べ直に諫め、上は人主の邪を払い、下は百姓の害を除こうとすれば、時の主の心に逆らい衰世の法に触れる。だから性を養い命を惜しむ士は進んで仕えようとせず、深山に隠れて先聖の風を詠ずるのである。だから伯夷・叔齊は首陽の下に餓えた。後世はその人を称える。このような邪主の行いはまことに畏るべきものです。ゆえに語ることは容易ではないと申すのです、と。
- 呉王ははっと顔色を改め、座を正して聴いた。先生は続けた。昔、伊尹は鼎を負って湯に、太公は渭の浜で釣りをしていて文王に遇った。心が合い意が同じで、謀は成らぬものなく、計は従われぬものがなかった。まことに君を得たのである。だから暴乱を誅し遠方を統べ、類を一つにし風俗を美しくして、王業が興った。太公と伊尹はこのようであり、龍逢と比干はあのようであった。悲しいことではないか。ゆえに語ることは容易ではないのです、と。
- 呉王は黙し、俯いて深く思い、仰いで泣いて言った。ああ、危ういことだ。我が国のことが忘れられぬ。細く長く続いていくのだな、と。
- そこで明堂の朝を立て、君臣の位を正し、賢才を挙げて恵みを施し仁義を行った。恭倹節約し、後宮の費を減らし車馬の用を削り、鄭声を退け佞人を遠ざけ、庖厨を省いて奢靡を去り、宮室を低くし苑囿を壊し、池や塹を埋めて貧民に与え、内蔵を開いて貧乏な者に賜い、老人を労わり孤独を憐れみ、賦斂を薄くし刑罰を省いた。
- これを三年行うと、陰陽が調和して万物はよろしきを得、国に災害の変はなく、民に飢寒の色はなく、蓄えは余り、牢獄は空になった。鳳凰が来て集まり、麒麟が郊に現れ、遠方の異俗も義を慕って風に向かった。治乱の道、存亡の端はこのように見やすいものなのに、人主は誰もこれを行おうとしない。悲しいことである。
枚乘と司馬相如
- この時、天子は安車蒲輪で枚乘を迎えたが、枚乘は年老いており道中で死んだ。枚乘の子の皋も談論に長け辞賦を作れたので、東方朔に並んで寵を得た。
- 天子は自ら熊や猪を撃つのを好んだ。郎中の司馬相如が天子に従って長楊で猟をした際、上疏して諫めて言った。物には同類でありながら能力の異なるものがあると聞く。だから力といえば烏獲、敏捷といえば慶忌、勇といえば孟賁・夏育を称する。人にそういう違いがあるのなら、獣もまたそうでありましょう。今、陛下は険阻な地を越えて猛獣を射るのを好まれる。にわかに群れを離れた獣に出遭い、思わぬ場所で驚かれ、属車の清塵を犯されでもしたら、輿は轅を返す暇なく、馬は踵を巡らす暇なく、人は技を施す暇がない。烏獲や逢蒙の技があっても間に合わず、枯木や朽ちた切り株までが災いのもととなる。そうなれば胡や越が車の下から起こり、羌や夷が車の後ろに迫るようなものです。危ういことではありませんか。万全で害はないと言われても、そもそも天子が近づくべきものではありません。道を清めてから行き、道の中央を馳せてさえ、時に轡や轅の事故はある。まして豊かな草を渉り丘墟を馳せ、前には獣を得る楽しみがあり、内には変事に備える計もないのでは、害が生じるのは難しくありません、と。天子はこれをよしとした。
- 司馬相如は字を長卿といい、蜀郡成都の人である。はじめ家が貧しく、臨邛の令の王吉と親しかった。富人の卓王孫が酒宴を設けて令を招き、あわせて相如も招いた。相如は琴が巧みで、王孫の寡婦の娘で字を文君という者が音を好み、夜に出奔した。相如はともに成都へ帰った。
- のち家が貧しく、夫婦で臨邛で酒を売った。卓王孫はこれを恥じて門を閉じて出なかったが、のちやむを得ず財物を厚く分けて文君に与えた。
- 相如が子虚の賦を作った。天子はこれを読んでよしとし、「朕はこの人と同時代でないのが残念だ」と言った。ある者が「司馬相如の作です」と答え、天子は驚いて相如を召した。相如はさらに上林の賦を奏し、郎中に任じられた。子虚・上林はいずれも苑囿の美を述べながら、最後は節倹に帰着させ、それに託して諷諫したものである。相如は吃音であったが著述に巧みであった。