前漢紀前漢孝景皇帝紀 六年 前151年

  • 冬十二月、雷雨と長雨があった。
  • 秋九月、皇后薄氏を廃した。皇后は薄太后の兄の娘で、天子が太子だったときに太后が娶らせたものである。寵愛されず子もなかったので廃された。

梁孝王の驕り

  • 梁王が入朝した。天子は乗輿に駟馬を馳せさせて闕下に梁王を迎え、入れば帝に侍し、出れば同じ車に乗った。梁王の侍郎・謁者は金貂を着けて天子の殿門を出入りし、漢の官と変わらなかった。
  • 梁王は自国では驕り僭上し、東苑を三百余里四方に営み、睢陽城を七十里に広げた。天子の旌旗を賜り、千乗万騎を従え、出るときは警、入るときは蹕を称し、天子に準じた。珠玉や宝器は京師より多く、遊士を招いたので四方から人が集まった。
  • 梁王は天子の弟で功もあり、太后の末子で愛されていた。太后は心中これを漢の嗣にしたいと思ったが、袁盎ら十余人が御前で議して反対し、太后の意は容れられなかった。
  • 梁王は怒って密かに人を遣わして袁盎を刺殺させた。他の者は仕損じた。天子は梁王の仕業だと疑った。
  • これに先立ち、齊人の公孫詭と羊勝は奇矯で邪な計略を多く持ち、梁王に初めて見えたとき千金を賜り、官は中尉に至って将軍と号し、常に王の内謀に与っていた。天子は使者を遣わして梁を調べ、羊勝と公孫詭を捕えさせ、二人は自殺した。
  • 天子はもと雲中太守の田叔を召して梁王を調べさせた。田叔は事実をすべて掴んで帰り、報告して言った。陛下は梁のことを問題にされませぬよう。今、梁王が誅に就かなければ漢の法が行われぬことになる。しかし法に伏せば太后は食も喉を通らず、寝ても安らげない。この憂いは陛下に及びます、と。天子はこれをよしとし、田叔を魯の相とした。

鄒陽の奔走

  • 枚乘と鄒陽はしばしば梁王を諫めたが聞かれなかった。梁王の事が急になると、梁王は千金の賞を出して方略の士を求めさせた。齊人の王先生が奇計に長けていると聞き、鄒陽が会いに行った。王先生は「必ず王長君に会いなさい」と言った。長君は王夫人の兄である。
  • 鄒陽は心に悟るところがあり、長君に会って言った。ひそかに聞くところでは、長君の妹君は後宮に寵愛され、長君の行いには道理に外れたところが多いという。今、梁の事が徹底的に究明されて梁王が誅されれば、太后は鬱憤やるかたなく血の涙を流し、怒りをぶつけるところがなく、貴臣に目を側めて歯噛みするだろう。長君は累卵より危うくなる。長君がまことに上に言上して梁の事を究明せずに済ませられれば、太后は長君に厚く恩を感じ、長君の妹君は両宮に寵愛されて、身は金城のように固くなる。
  • 昔、舜の弟の象は日々舜を殺そうとしたが、舜は象を有庳に封じた。仁人が兄弟に対するときは、怒りを含まず怨みを宿さず、親愛を厚くするだけである。魯の公子慶父が僕人に子般を殺させたとき、季友はその実情を探らずに誅した。春秋はこれを親を親しむ道に失するとしている、と。これで天子を説き、梁の事は幸いにも上奏されずに済んだ。長君は「承知した」と言って参内し、そのように述べた。
  • 梁の内史の韓安国も長公主を通じて弁明したので、梁王はついに罪に問われずに済んだ。

鄒陽の獄中上書

  • はじめ鄒陽は羊勝・公孫詭に讒言され、梁王は彼を囚えて殺そうとした。鄒陽は獄中から上書した。
  • 忠には必ず報いがあり、信は疑われないと聞いていたが、今それが虚しいものだと知った。昔、荊軻が燕の太子丹の義を慕ったとき白虹が日を貫いたが、太子は荊軻を畏れた。衛先生が秦のために長平の策を画したとき太白が昴を蝕んだが、昭王は疑った。精誠が天地を動かしても信が二人の主に通じなかった。悲しいことではないか。
  • 今、臣は忠を尽くし義を全うしたのに左右が明らかでなく、ついに吏の訊問を受けて世に疑われた。これでは荊軻や衛先生が再び現れても、燕や秦は悟るまい。
  • 昔、玉人が宝を献じて楚王はこれを刑し、李斯が忠を尽くして胡亥は極刑に処した。だから箕子は狂を装い、接輿は世を避けた。この患いに遭うのを恐れたのである。大王には玉人・李斯の心を察し、楚王・胡亥の聞き方を改め、臣が箕子や接輿に笑われぬようにしていただきたい。
  • 偏った聴取は姦を生み、独断は乱を成す。だから魯は季孫の説を聴いて孔子を逐い、宋は子罕の計を信じて墨翟を囚えた。孔子・墨子の弁をもってしても讒諛から免れられず、二国が危うくなったのはなぜか。衆口は金をも溶かし、積み重なる誹りは骨をも消すからである。
  • 明月の珠、夜光の璧も、闇の中で不意に投げ与えれば、剣に手をかけて怒らぬ者はない。理由なく目の前に現れるからである。蟠木の根は曲がりくねっていても万乗の器となるのは、左右が先にその姿を整えてやるからだ。だから女は美醜を問わず宮に入れば妬まれ、士は賢愚を問わず朝に入れば嫉まれる。
  • 昔、司馬喜は宋で臏の刑に遭いながらついに中山の相となり、范睢は魏で脅骨を折られながらついに応侯となった。この二人は必然の計を信じ、朋党の私を捨て、孤立を貫いたから、讒諛の人から免れられなかったのだ。だから申徒狄は雍の河に身を投げ、徐衍は石を負って海に入った。世に容れられず、義として苟くも取らず、朝廷で徒党を組まなかったのである。
  • 百里奚は路上で食を乞うたが秦の穆公は政を授け、寗戚は車の下で牛に飼葉をやっていたが齊の桓公は国を任せた。この二人がもとから朝廷に仕えて左右の褒め言葉を借りたわけではない。心に感じ行いに合い、膠漆のように固く、衆口も引き離せなかったのだ。浮ついた言葉に惑わされようか。
  • ゆえに聖主は卑しい弁舌に引かれず、多数の口に奪われず、独り陶鈞の上で万物を化し、広く明らかな道を見る。
  • 盛んに飾って朝に入る者は私で義を汚さず、名を磨く者は利で行いを傷つけない。今、天下の広大な志を持つ士に、威重の権に誘われ勢位の貴きに脅され、顔を背け行いを汚して諂諛の人に仕え、左右への親近を求めよと言うのなら、士は洞窟や巌石の中で伏して死ぬだけであろう。どうして忠信を尽くして闕下に赴こうか、と。
  • 書が梁王に奏されると、梁王はただちに鄒陽を出して上客とした。
  • 枚乘はしばしば呉王を諫めた功で弘農都尉に任じられた。しかし枚乘は長く諸侯の上客だったので郡吏となるのを楽しまず、のち病を理由に辞して梁に遊んだ。

田叔の魯の治め方

  • 田叔が魯に着くと、魯の民で王に財を取られたと相に訴える者が百余人いた。田叔はその首謀者を選んで軽く笞打ち、怒って言った。王はお前たちの主ではないのか。どうして王を訴えたりするのか、と。
  • 魯王は恥じて中府の銭を出して償わせようとした。相は言った。王が自ら人を遣わして償うべきです。今、相に償わせれば、王が悪を行い相が善を行うことになります、と。
  • 魯王は遊猟を好んだ。田叔はいつも従い、王が休憩して館に入るときも、田叔は苑の外に座って「我が王が野外にいるのに、私だけどうして休めましょう」と言った。魯王はそのため二度と遊猟に出なくなった。